くじら


 家を出るとき母親が今日はくじらの来る日だと告げたので、フリオは学校に行っているあいだ中そわそわして、勉強どころではなかった。もっとも、それはフリオだけに限ったことではない。指されても頓珍漢な返答をする者、教科書を読めと言われて全然違うページを読む者、壁に掛けてある電気時計ばかり見つめている者。先生も叱るより戸惑って、「今日はほんとうにみなさんどうしたんですか」と眼鏡の奥でまんまるくした眼をぱちぱちさせた。
 どうしたもこうしたも、今日はくじらが来るんですよ、先生。フリオは心の中でそう答えた。
 中には副委員長のコーラみたいにくじらなんかにまったく興味を持っていない生徒もいる。それでもほとんどの生徒は興奮している。
 休み時間には教室のあちこちで仲のいいもの同士が集まってにこにこした顔で「くじらが来るんだな」「うん、そうだな」などと言い合ってはげらげら笑った。
 四限目は理科だった。うわの空でいたフリオは先生に指された。「では、フリオ」
 フリオは慌てた。先生の話をちっとも聞いていなかった。普段のフリオなら、そんなことはない。理科は大好きな教科だから、いつもなら熱心に聞いているし、先生の質問にはきちんと答えられるのだ。だが今日は違っていた。なぜといって今日はくじらが来る日だったのだから仕方ない。立ったまま下を向きもじもじしているフリオを見て、先生はおやおやという顔つきになった。先生はしばらくフリオを見つめていたが、やがて再び質問を繰り返した。
「背骨のある生き物のなかで、いちばん大きく成長するのは何だか知っていますか。フリオ」
 フリオはそれを聞くとぱっと顔を上げ、大きな声で答えた。「はい。くじらです。それはくじらです」
 おおっという声が上がり、生徒たちは口々にくじらだ、くじらだ、と囁きあった。
 先生はその「おおっ」にたじろぎながら、「はい、そうです。よくできました」と言った。
 昼休みにフリオは隣りの学級のエルネストと会った。
 エルネストはにやにやしながら、「くじらだな」と言った。
 フリオもにやにやしながら「くじらだ」と言った。
 そしてふたりは顔を見合わせたままくすくす笑った。
 放課後の鐘が鳴ると生徒たちは一散に学校から駈け出した。いつもなら、校庭で遊ぶ生徒たちが見られるのだが、今日だけは誰も学校に残らなかった。
 年に一度行われる避難訓練よりもっと短い時間しかかからなかった。
 職員室では先生たちが「今日は変ですねえ」と顔を見合わせていた。先生たちはみんなよその町からやってきているので、今日がくじらの来る日だということを知らないのだった。
 フリオはエルネストと一緒に駈けていった。大きな篠懸の木の立っている辻でエルネストと別れると、家を目指して、また駈けた。
 家に帰ると、父親はすでに仕事から戻っていた。フリオは父親を急き立てて村役場に向かった。
 フリオの家からくじらが来る役場前の広場までは歩いて十分くらいである。フリオは父親と並んで歩きながらひどく興奮している。
「今年はどんなくじらが来るのかな」フリオは顔を紅潮させて父親に言った。父親は、どんなくじらだろうなあ、と呟いた。
「去年のくじらよりも大きいかな」
「どうかな。そうだったらいいな」穏やかな声で父親は言った。
「うん。そうだったらいいね」フリオは繰り返した。「そうだったら、いいね」
 村役場の前の広場にはテニスコートの半分くらいの広さのコンクリート敷きの場所がある。それは年に一度やってくるくじらのためだけの場所なのだ。
 そこにはもう何人もの人が集まっていた。親に連れられて子供たちもたくさんいた。その中にエルネストの顔を見つけてフリオは近づいて行った。エルネストには父親がいない。彼はひとりでやってきたようだった。
 エルネストはフリオに気づくと、嬉しそうな顔で言った。「いよいよだな」
 フリオも笑って言った。「うん。いよいよだ」
 村役場の中から作業着姿の男が数人出てきた。しばらくするととうとう大きな運搬車が広場に入ってきた。子供たちの間から歓声があがった。運搬車が停まると、作業着の男たちは荷台の扉を開け、くじらを運び出した。
 再び大きなどよめきが起こった。
 それは非常に大きなくじらだった。大きいだけでなく、姿も美しかった。濃紺の背中が濡れて光っていた。
「去年のくじらよりもずっと大きいや」フリオはエルネストに言った。エルネストも眼を輝かせてうなずいた。
 フリオの父が誰かと話していた。
「今年は北海の漁は芳しくないと聞いていましたが、それにしては立派なくじらがあがったものですなあ」
「まったくです。大したもんだ」
 作業着の男たちは刀のように大きな包丁で、くじらを捌きはじめた。鋭い刃が濃紺の皮膚を切り裂くと真っ赤な肉が見えた。男たちは慣れた手つきでくじらを切り刻んでゆく。コンクリート敷きの地面はくじらの血液で赤黒く染まる。
 フリオはその様子を息を詰めて眺めた。
 くじらはどんどん解体されていった。
 フリオの住むこの村は山峡(やまかい)にある。フリオはふと疑問に思った。どうしてこの村に毎年くじらがやってくるのだろう。これまで考えたこともなかったが、思えば不思議なことだった。
「どうしてこの村にはくじらがやってくるの」
 父親は答えた。「この村の大人たちの多くはかつてくじら獲って暮らしていたんだ。捕鯨船に乗っていたんだよ。それで、今でも昔の知り合いに頼んでくじらを送ってもらっているんだ」
「どうしてくじらを送ってもらうの」
「それは」父親はちょっと悲しそうな顔つきになった。「海を忘れないためだ」
 フリオはその父親の表情に少し当惑した。もしかしたら父を困らせることを訊いたのではないだろうかと思った。しかし、また訊ねた。
「父さんもくじらを獲ってたの」
 父は微笑んだ。「ああ。そうだよ。父さんは捕鯨船の通信士だったんだ」
「通信士って何」
「無線で基地と連絡をとるんだよ」
「無線って電話みたいなもんでしょ」
「いや。当時は直截言葉を送る設備はなくてな。モールス符号を使っていたんだ」
「モールス符号……」
「そうだ。文字を信号に置き換えて送るんだ」
 そう言って父親はフリオの手をとり、自分の人差し指でフリオの掌を軽く叩いた。
 トン・ツー・ツー
 トン・トン・トン・トン
 トン・ツー
 トン・ツー・トン・トン
 トン
「いまのは『くじら』という意味だよ」
 横で聞いていたエルネストが口を開いた。「へえ。おじさんってすごいや」
 父親は笑ってエルネストに言った。「ああ。通信士は大切な仕事なんだよ」
 大切な仕事と聞いて、フリオは父親を誇らしく思った。
 どうして大人たちはくじら獲りをやめてこの村にやってきたのかと、フリオは訊ねたかったが、訊いてはならないことのような気がしてやめた。
「おじさん。ぼくも大きくなったらくじらを獲りたいなあ」エルネストが言った。「獲れるかなあ」
 父親は優しい口調で言った。「ああ。獲れるとも」
 気がつけばくじらはすっかり解体されて白い骨格をさらしていた。作業着の男たちがビニールの袋に詰めた鯨肉を見物人に配りはじめていた。
 エルネストは嬉しそうな顔でフリオに言った。「フリオ、大きくなったら一緒にくじらを獲ろうな」
 フリオも笑顔で言った。「うん。このくじらよりももっともっと大きくて立派なやつを獲ろう」
 フリオもエルネストもまだ海を見たことがない。


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文責:keith中村
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