内と外


 秀秋は素面の祖父をあまり覚えていない。
 いちばん鮮明な記憶は、肌着にすててこという情けない恰好で竹帚を逆さに抱えた祖母に追いまわされている祖父の姿である。また箪笥のうしろに一升瓶を隠していたのが見つかったのだ。
 祖母は悪態をつきながら、一升瓶を抱えて逃げる祖父を追いつめ竹帚で打擲する。何遍言うたら分かるんや、このアル中が。祖母の抱える帚が祖父の禿げあがった頭に振りおろされる。祖父はその禿頭まで赫く染めて、呂律の回らぬ口で祖母に謝る。母さん、堪忍や、堪忍や。もう呑まへんから堪忍や。
 堪忍や堪忍やとくり返しながら祖父は一升瓶を抱いてその場にしゃがみこんでしまう。祖母は容赦なく打擲を続ける。祖母はアル中めアル中めと喚きながら、いつまでも帚を振りおろす。祖父は涙と洟とで顔をびしょびしょにしていつまでも堪忍やもう堪忍してえなと訴えつづける。
 何度かそういうことがあったが、その場がいつもどう納まるのか秀秋には思い出せない。お義母さん、もうええがな、やめとき、と母親が仲裁に入るのを見たような気もするが、記憶が曖昧だ。
 駅の子供たちはみんな狂うていたが、それはしかたのないことであると秀秋は思う。というのも列車がちっともやってこないからであり、自分だってそれだけ列車がこないとなれば狂うてしまうか、あるいはその場で凍てついて氷柱と化してしまうかのどっちかしかないなと考える。子供たちはその幼さゆえに氷柱になるという考えには行き当たらず、みんな狂うてしまうほうを選び、狂うた頭で列車を待つ。
 さいわい秀秋はまだそれだけ長く列車の到着を待ったことはなく、したがって狂うてはいない。若くしてそこまで列車を待たなければならなかった彼らのことを考えると秀秋は少し憐れな気持ちにもなるが、むしろ狂気や狂人への好奇心が勝り、しかしなによりも彼らが狂うているがゆえの怖さや嫌悪感がそれに先立ち、秀秋は駅舎の前をとおり過ぎるたびに結局のところ少し足ばやになってしまう。
 秀秋が祖父をあまり記憶していないのは、祖父がほとんど家にはおらず一年の大半を別荘で過していたからである。別荘、と家族が呼んでいた建物は隣りの村の小さな山の上、樹木に囲まれてぽつんと建っていたが、家は決して裕福ではなくむしろ貧しい部類に属していたので、なぜそんな建物を所有していたのか今でも秀秋にはよくわからぬ。父母に訊けばわかるだろうが、もうとっくになくなっているその建物のことを訊ねるのもなんとなく不自然な気がして彼が訊ねたことはない。ただ、その別荘はある将校の住居だったものを解体して山の上に運び建てなおしたものだということを、昔、母に教えられた。父方の遠縁に陸軍大将がいたそうだから、その縁故かもしれな
いと秀秋は考える。
 別荘のあった山は山といっても小さくて、細い山道を子供の足でも十分も歩けば登ることができた。何度か行っただけなので秀秋がぼんやりとしか記憶していないその建物は、木造の和洋折衷様の平屋であった。玄関の上がり框に篭に入った大きな鸚鵡の剥製が置いてあった。その鸚鵡は秀秋がうまれる前に秀秋の家で飼っていたものだ。別荘には布製の白いソファを置いた広い洋室がひとつと八畳と六畳の和室があわせて五部屋あった。土間になった台所には竃が二つあり、その頃にもさすがに竃は使っておらずプロパンのガス焜炉を使っていが、風呂は薪で焚いていた筈で別荘の裏手に薪が積まれていたのを彼は記憶している。
 庭にガラス張りの観葉植物用の温室があったが、温室の中の様子は彼の記憶にない。その頃には物置がわりになっていたのかも知れない。だが祖母は植物の世話をするのが好きだったから、ちゃんと観葉植物が植わっていたとも考えられる。
 別荘は山林の中にぽっかり拓いた土地にあり、周囲を樹樹に囲まれていた。その樹の枝に綱をかけて父にブランコを作って貰い、姉と一緒に遊んだこともあった。
 この別荘でなら祖父がいくら酒を呑んでも、祖母はとやかく言わなかった。山のなかの一軒家で隣近所に祖父が迷惑をかける心配がなかったからだろう。そのため祖父は別荘にいることが多かった。というより家に戻ってくるのは食糧やら金やらの補給のためだけだった。だから家にいるときにさえ呑まなければ、祖母の逆鱗に触れることもなかった筈だがその僅かの間すら呑まずにいられない、アル中とはそういうものかと秀秋は思う。
 祖父が、酔っぱらってはなにやら独り言を言っていたのを秀秋は思い出す。ある時はやたら陽気に。ある時は不機嫌そうに。いずれにせよ幼い秀秋にとって祖父は何やら訳のわからぬ恐い人だった。
 あとで母から聞いたところによると、祖父は、秀秋よりも姉の方をよほど可愛がっていたようで、そういえば、上機嫌で外から帰ってきた祖父が姉にお菓子を与えているのを見たことはあるが、秀秋自身は祖父から何かしてもらった記憶はない。もっともそのことで彼が姉を羨ましくは感じなかった。子供ながらに、不公平だなとは思ったものの、彼の家は当時駄菓子屋を営んでおり、母か祖母かに断りさえすればお菓子を自由に手に入れることができたからだ。
 一度だけなにやらとても機嫌のいい祖父が秀秋の名前を呼んで「おお。こっちおいで。おじいちゃんがだっこしたろ」と腕をさし出したことがあったが、そんなことは初めてであり、無気味なのと酒くさいのとで秀秋はじっと黙りこくって祖父を見ていた。秀秋のそんな様子を見て、祖父は急に顔を険しくした。秀秋は怒られるのではないか、撲られるのではないかと心底怯えたが、祖父は何やらぶつぶつと言いながら去っていった。そのとき彼は祖父に対して非常に申し訳ないような気分になった。
 秀秋は駅舎の前を通り過ぎるたびに、母親から聞かされた「だんぶ」のことを思い出す。今にしておもえば母親の口調には暗い差別的な響きがあった。秀秋はそのときの母親の感情を想像し、狂うた子供たちに自分がおぼえる感情とそれを比較しようとする。そうして決定的に母親に欠如していたものを発見する。それは自分自身が異世界にさまよい出る可能性に関する想像力である。母親の感じていた恐怖は自身の日常が異物によって侵食されおびやかされる恐怖であったのだろうが、秀秋の感じる恐怖は自身が異化することに対する恐怖である。
 幼い頃の記憶というものはとても曖昧で、果たして夢であったか現実なのか判別しがたいものもある。あるとき秀秋は祖母に連れられて近所の神社に出かけた。夕方のうす暗いころであった。神社への坂道を祖母に手を引かれ、秀秋はのぼってゆく。しばらく歩いてゆくと神社の石段から前の道いちめんにかけて赤い肉片が散乱していた。秀秋にはそれが人間の肉片のように思えたが、祖母は気にすることなく平然と歩いて行く。肉片の中にはあきらかに人間の耳のように見えるものや眼球のようなもの頭髪のようなものもあったが、祖母はまったく無頓着に石段を登る。秀秋は叫び出したいような恐怖を憶えたが、祖母の様子を見て、もしかしたらこれは別段大した出来事ではないのかもしれない、子供の自分にはわからないがごくありふれた出来事なのかもしれない、と思い直した。神社からの帰りに見てみるともうそこには肉片はひとかけらも残っていなかった。
 あすこの家の旦那はんなあ、ずうっと猫を虐めててなあ、何十匹も猫を殺してはったんや。そやからなあ、産まれた子にはなあ、びっしりと毛が生えててなあ。猫の祟りやったんやなあ。そんで、その子は生肉しか食べへんのやて。祖母と母親の会話を秀秋は思い出す。それは秀秋の家から一区劃ほど離れた家のことだ。猫の祟りなどというものが実在するのかどうか幼い秀秋にはわからない。全身が猫の毛に覆われた子供の姿を秀秋は想像する。いつぞや石段の前に散乱していた肉片を猫の毛の子供が四つん這いになって喰っている姿を想像して戦慄をおぼえる。
 狂うた子供たちと一緒に列車を待つという行為に秀秋はいつまでたっても慣れない。秀秋の乗る列車はいつも定刻にやってくるのであるが、やはり列車が来ずに待ち続けなければならない状況を想像すると秀秋は慄然とする。秀秋の近くに立っている狂うた女子中学生がさっきから誰に言うともなく喋り続けている。
 昨日の晩ね、勉強してたの。ほら、今日試験があったじゃない、それで、試験勉強してたのね。でも、私ってそういうのあんまり得意じゃないじゃない、でしょ。あんたはそうでもないでしょうけど。それでね、ずっと勉強してたんだけど、んんと夜中の二時頃だったかな、多分それくらいだったと思うんだけど、息抜きしようと思ってベランダに出て空気を吸ってたのよね。それでもやっぱり試験のことが気になるからノートなんか持って出て、眺めてたの。で、ふっと空を見るとね、なんだかね、オレンジ色の光が浮かんでるのね。オレンジ色なのよ。そのオレンジ色の光が、ええとね、なんだかぼんやりした光だったんだけどそれがすううううって空を動いてくのが見えるのね。で、私はああっ、UFOだあ、ってそう思ったの。そう、瞬間にね、なぜかそう思ったのよね。でもよく見てると動きがとっても単純なのね、すううううううって空を横切って行くだけなの。ほら、よくUFOの目撃談ってあるじゃない。そういうの聞くとUFOってジグザグに動いたりとか、あ、消えたなって思ったらちょっと離れた別の場所に現れたりって言ってるじゃない。でも、でもそういうんじゃなくって本当に単調にすううううううって空を横切ってくだけなのね、私が見たのは。オレンジに光りながらすううううううって。で、UFOじゃないのかなあ、飛行機か何かなのかなあって思って、それでもやっぱりじいっと見てたのよ。そしたら、そのオレンジ色の光がね、ちかちかまたたきだしたの。ちかちかちかって。夜中に交差点の信号が点滅するじゃない、ちかちかちかって。ちょうどそういう感じでオレンジがちかちかちかちかってなるのよ。で、その光を見てるとね、なんだか急に眠くなってきちゃって、いつの間にか寝てしまったみたいなの。もしかしてああいうのが気を失うっていうのかもしれないけどね。で、とにかく気を失ってしまったみたいになって、そう、そのままベランダでよ。
 秀秋の家のすぐ裏手には古ぼけた大きな屋敷があったが、秀秋は母親からその屋敷に近づくことを戒められていた。秀秋は母親の低く押し殺した声を思い出す。あの家にはなあ、だんぶがおるんや。そやからな、絶対に行ったらあかんで。なにしろだんぶは何するやわからへんからなあ。おとろしいんやで。「だんぶ」というものがいったい何なのかわからなかったが、母親の口調からそれが非常に恐ろしい存在であると秀秋には感じ取れた。裏手の屋敷には大きな土蔵があり、母親の話ではだんぶはその中にいるという。秀秋は裏手の屋敷にある大きな土蔵を眼にするたびに、だんぶが中から自分を窺い見ているような気がして恐怖した。
 秀秋の乗る列車はまだこない。女子中学生は喋り続けている。
 それで、気が付くとなんだかぼうって光る真っ白な部屋の真ん中で寝てるのね。真っ白い部屋の真ん中にあるベッドで寝てるの。眼が醒めるとあたりが真っ白なのよ。わかる、ほんとうに真っ白いの。ここはどこだろうって思って上半身だけ起き上がってしばらくぼうっとしてたらね、その真っ白い部屋の壁の一部がすっと開いて、不思議なんだけど切れ目もなにもないと思ってた壁の一部がするするって横にずれてその向こうから白い服を着た人が二人やってきたの。で、私のいるベッドに近づいてくると一人がこういうのよ。我々は宇宙人だって。おかしいでしょ、それが綺麗な日本語なのよ。アクセントもどこもおかしくないし、本当に普通の日本語で、われわれは宇宙人だっていうのね。で、私が黙ってると、われわれは地球の単位で百二十光年の彼方からやってきた宇宙人であるって言うのよ。漫画みたいでしょ。で、その二人の顔を見てみるとほんとうに普通の人間の顔なのよ、普通の日本人とおんなじ顔。よおく見てみるとちょっとだけ耳が大きいかなって程度で。福耳ってあるじゃない。ほんのちょっとだけなのよ、耳が大きいっていっても。それで、私は、そんな遠い所からやってきた宇宙人さんが私に何の用ですか、って訊いたの。するとね、われわれは地球人を観察している、あ、研究しているだったかな、そんなことをいうわけよ。で、地球人の殖え方がぜひ見たいっていうの。わかる、殖え方って子供の作り方よね。私、思わずきゃあいやらしい、って言ったわ。宇宙人がね、そんないやらしいこというのよ。「殖え方」なんてなんだかとってもいやらしく聴こえない。でね、私まだ中学生だし、そんなこと困ります、わかりません、って言ったの。そしたら、その二人の宇宙人は困ったみたいな顔をして、そうかわからないのか、それは困ったっていうのよ。だから、私こそ困ります、って言ってやったわ。なんだか知らないけど、私明日試験があるし、勉強しなきゃならないから、帰してよ、って。そう言ったらね、宇宙人は二人で何かちっちゃな声で相談しはじめて、それから私の方を向いて、わかりました、君を帰します、っていうのよ。で、ベッドに横になれって言うのね。私、はい、でもでも、いやらしいことしたら承知しないわよって宇宙人を睨んで横になったの。そしたら、宇宙人は私の頭のあたりに手をやってね。で、急にまたふうっと気を失っちゃって気が付いたらもとのベランダで倒れてたのよ。でね、その時左手にこのちっちゃな棒を握ってたの。ねえ、この棒って一体何だと思う。わかんないのよ。
 秀秋は祖父の抽斗をこっそり開けてみるのが好きだった。黄色くなった古い新聞紙が敷かれた抽斗のなかには宝物が入っていた。秀秋には何に使うものかすら分からぬものが大半であった。レンズのとれた銀縁の丸眼鏡、やけに機械的なオイルライター、真空管、壊れた懐中時計、モールス信号の打鍵器、ウィスキーの携帯瓶、銀色に光る小さな棒。しかしそれらのがらくたはいかにも魅力的だった。
 定刻をすこしだけ遅れて秀秋の乗る列車が駅に入ってきた。気が付くと女子中学生は喋るのをやめていた。秀秋が列車に乗って振り返ると、女子中学生は何か言いたげな表情を見せたあと、秀秋に向かってにっこり微笑んだ。
 ある年、正月が明けてしばらくたった夕方、居間の電話が鳴った。夕餉の支度をしていた母親が受話器をとった。火事という言葉が聞き取れた。そのときの母親の狼狽した声を秀秋は思い出す。山、ですか。別荘、なんですか。
 秀秋は列車に揺られながらいつの間にか眠っていた。夢の中で秀秋は別荘にいた。別荘の庭に駅舎があり、プラットフォームの上では猫の毛の子供や狂うた子供たちが楽しそうに踊っていた。
 出火の原因は炬燵の過熱であった。酔っぱらって眠り込んでしまった祖父は、逃げ遅れ別荘とともに焼死した。
 葬式の数日後、秀秋は家族に連れられて別荘のあった山に訪れた。別荘は完全に焼け落ちて周囲にはまだきな臭さが漂っていた。祖母は黒ずんだ瓦礫を踏みわけて炬燵のあったあたりまで歩いてゆき、そこに花を手向けた。それから持ってきた一升瓶の口を開け、逆さにしてあたりに注ぎながら穏やかな声で呟いた。
 おじいさん、これからはなんぼでも飲ましてあげるで。
 秀秋が眼を醒ますと列車は駅に着いたところだった。
 そこは秀秋がもう何年も帰っていない故郷であり、そこには秀秋の過去がある。


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