第98回 面白くないのに


 黙っているときの私は、そんな言葉はないけれど苦悩顔のようで、かつて高校の頃友人が言った。
「お前はいいよな。黙ってると人生に思い悩んでいるみたいで格好ついて。俺なんか、同じようにしてたら『お腹痛いのなら保健室行きなよ』って言われるもんね」
 そんなわけで、自分で言うのもあれだが、若かりし頃は「苦悩」やら「人生」やらに憧れる文学かぶれの女子の人には隠れファンが多かったようだ。じっさいに口を開くとその内容の幼児性によって、愛想をつかされることも常だったのだが。そもそも私が物思いに耽っているような顔つきで俯いているときに頭にあることは「お腹が空いたのだ」か「とっても眠いのだ」かのいずれかであるのだから仕様がない。
 しかも、最近では黙って俯いていると、ただの「不景気なおっさん」である。いかにとやせん。
 恐らく私はまだ口唇期リビドーの段階にあるのだろう。口に入るものが大好きであるし。煙草とかカレーとか女子の人の乳首とか。すみません。
 未だに幼児性が抜けきらず、抛っておくと実に下らないことが脳裡をよぎるので困る。
 ふとした瞬間に馬鹿馬鹿しいことを思い付くのは誰しも同じだろうが、私は笑いに対して耐性が少ない。その極めて馬鹿馬鹿しい内容に不覚にも場所柄もわきまえず笑ってしまうのである。
 たとえば電車に乗っているとする。吊り広告かなにかにある「ゴルバチョフ」という単語が眼に入る。「ああ。ゴルバチョフかあ。ゴルバチョフねえ。彼も大変だねえ」などとぼんやり考える。何が大変なのかはよく解っておらぬ。かかるのち、不意に無意味なことを思い付いてしまう。
「ゴルバチョフ、五歳。独身。『ミーシャって呼んでね』」
 こういうフレーズをバリトンの渋いナレーションで頭の中に響かせてしまうのである。ふわ、と鼻孔が膨らみ笑いの発作が襲来する。にや、としかけて「いかん。いかん」と振り切るのだが、一度浮かんだイメージはなかなか払拭できない。飼い猫が死んだときの悲しい記憶を思い出して中和させようとするのだが、笑いの衝動は抑えられない。「ミュウちゃん。ごめんね」と猫に謝りながら俯いて肩を顫わせてしまう。後で振り返ってみると、どうしてあんなことで笑ってしまったのだ、というような下らない内容である。ゴルバチョフ、五歳。何だそれは。独身。ほうほう。『ミーシャって呼んでね』。馬鹿が。どこをとってもちっとも面白くないではないか。どうしてこんなものに笑ってしまうのだ。エゝ、くち惜しや。よよよよ。と悔やんでしまうのであった。
 この、肩書きまがいのフレーズを人名の後につけるというのは私の深層心理がよくやる攻撃である。
 道を歩いていて「レオナルド・ディカプリオ」なる名前が眼に入るとする。さっそく思い付いてしまう。
「レオナルド・ディカプリオ、二十八歳。デカプリン製造技師。『このプリンの重みで船を沈めるっす』」
 無茶苦茶である。そもそも「デカプリン製造技師」なんて職業はない。ただの語呂合わせではないか。思いつつも、にやにや顔になってしまう。「ミュウちゃん。ごめんね」と思いながら。向かいから歩いてきた人にはさぞ無気味であろうと思われる。どういうことか。今こうやって書いていてもちっとも面白くないフレーズじゃないか。なんとかならぬものか、私という人格は。
 先日のストーンズ公演の後でも思い付いてしまった。
「ビル・ワイマン、北海道出身佐渡ケ嶽部屋。『馘首になったからお好み焼き屋でも始めるっす』」
 おいおい。お好み焼き屋はないだろ、と思いつつも笑ってしまった。幸いこのときは、大変な雑踏だったので笑い顔を胡麻化す必要はなかった。よかったね、ミュウちゃん。
 人名に限らぬ。「白髪三千丈」と、何故かふと思い付いてその直後、
「白髪三千丈。いまや地球七周半。継続は力なり。頑張ってます」
などと考えてしまった。これは会議の真っ最中だったのだが、やはり俯いた肩が顫えてしまった。
 いったいに、こういう下らない物事は一人っきりでいるときには思い付かぬものである。むしろ、ある程度緊張を強いられる場面において顕在化する。緊張への補償作用なのだろうか。
 しかし、思い付く物事がことごとく知性のかけらも感じられぬ内容なのはどういうことか。
 教えて、ミュウちゃん。


新着順一覧 − 日付順一覧 − 前を読む − 次を読む − トップページ


1998/04/27
文責:keith中村
webmaster@sorekika.com