第92回 説明


 世の中には二種類の人間しかいない。人間を二種類に分割して考える人間と、そうしない人間である。そして私は後者に属する。
 さて、今回のテーマは「文学と説明」である。世の中には説明するのが大好きな人間とそうでない人間やら、説明してもらうのが大好きな人間とそうでない人間やらが存在するのであるが、この世に存在するあらゆるものには、たとえ奇異に感じる事象についてもそれなりの説明が付随する。
 こんなことがあった。ある友人の家に赴いた時であるが、彼はTシャツの裏表を逆に着用していた。すなわち、通常肌に触れる側を表側に、通常世間に向いている側を内側に着用していたのだ。無地のTシャツなら間違えているということもあろうが、白地にプリントがあるものなので間違える筈もない。しばらくはその件に触れずにいたのだが、とうとう堪えきれなくなって私は彼にその訳を問うてみた。
「ああ、これね」彼は平然と言った。「会社から帰ってきてまだ着替えてないだけ」
 はて、どういうことかと不審な顔をする私に続けて「こうやって着るとワイシャツの上から柄が目立ちにくいんだよ」
 つまり彼はワイシャツを透してその下のTシャツの柄が見えないようにそうしていたのだ。要するに洗濯物を貯めこんでいて着ていくシャツがなかったからそうやってTシャツで凌いでいた、という訳だったのだ。
 私はその時、感嘆した。何事にも説明はあるものだなあ、と。
 ところで小説というものは大別すると二種類になる。純文学と言われる文学的なものと、大衆小説娯楽小説とでもいうべき非文学的なものである。やや語弊のある言い方ではあるが、一応そういうことにしておく。
 これら二つのものの違いは何によるものかと考えてみたのだが、「説明」にあるのではないか、と思い当たった。文学というものは極度に説明を少なくし、非文学は過剰に説明するのではないか、と考えたのだ。
 だいたい、文章を書く人間は多かれ少なかれペダンティックな部分を持ち合わせており、それは私とてそうなのであり、私の場合はあまりに衒学的過ぎて嫌われることも屡々で、いやいやそんなことはどうでもいいのだが、純文学では著者の衒学が未説明のまま置き去りにされ、大衆文学ではきちんと説明してくれる、そこら辺りが純文学に厭味を感じる人もいる原因なのかもしれない。要するに純文学の作者の「判る人だけ解ってくれればいいよ。解んない人は抛っておくからね」というような態度に反撥を覚えるのだろう。
 村上春樹という人はそこらへんの呼吸が巧い。彼は説明なしにどんどん私的なキーワードを持ち出すが、それがほとんどカウンターカルチャー、サブカルチャーの単語であるため、たとい彼に「解る人だけついておいで」と読者を突き放す意図があったにしても、それほど厭味にならず、解らない人だって「馬鹿にされている気分」にならずに読めるのであろう。世の中にはどう考えても村上春樹的なキーワード(譬えばスライ・ストーンがどうの、ジェフ・ベックがどうした)を理解できる趣味嗜好を持っていないのに村上春樹を好む人だって多いのはそういうことなのだろうと思う。
 話を元に戻すが、つまり文学作品を読んで受ける感銘というのは得てして「解ったような解らぬような、それでいて何となく素晴らしい」というものであることが多く、娯楽小説を読んで受ける感銘というのは「ジグソーパズルが完成するように、最後に全ての物事がきちんと収束してゆくところ」であることが多いのだ。
 純文学、娯楽文学という分類と同様に芸術的、娯楽的という分類ができる映画を例に取ってみると解りやすいかもしれない。SFというジャンルから二つ例を挙げる。
「惑星ソラリス」という作品がある。芸術映画の古典的名作で監督はソビエトの名匠アンドレイ・タルコフスキイ。私の知人がこれを観て漏らした感想は以下の通りである。
「ソラリスって映画は、なあんか全然訳がわかんないんだよね。退屈で退屈で途中なんかほとんど寝てしまって。で、終わり附近で目を醒まして観るんだけど、それでも、どおん、と感動するんだよねえ。途中眠っててもあれだけ感動するんだから眠らなかったら物凄いんだろうねえ」
 私はタルコフスキイをここまで簡潔に言い表した人間を他に知らない。
 同じ知人がロバート・ゼメキスの「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を観た時の感想は「いやあ、すんげえ面白いのな。途中でもつれにもつれた糸が最後に全部解きほぐされる快感ちうのかな。そりゃ、凄いよ」
 まさに、純文学と大衆小説の違いが「説明」のあるなしに拠るものである格好の例であろう。
 ところで私は学生時代に自主製作映画を撮っていたのであるが、ある先輩から「安易な説明の台詞は絶対に避けろ」という箴言を賜ったものである。実際「安易な説明」というものは作品の質を明らかに低下させる。しかし、特に量産型のテレビドラマにおいてはそれらが顕著に見られるのも事実だ。
 三流ドラマにおいてよく見られるのにこういう場面がある。居間の電話が鳴る、妻がそれを取る。「もしもし。ええっ。何ですって。主人が交通事故に遭って重体ですって」。ボーン、というピアノの低音弦の効果音。場合によってはカメラが受話器を持つ妻の顔にズームアップする。受話器の向こうの人が何と言ったか知らぬが、こういう切迫した局面で「主人が交通事故に遭って重体」などと要約した鸚鵡返しの返事などする訳がない。不自然過ぎる。明らかに視聴者に向かっての説明なのであるが、恐ろしいことに我々はともすればその不自然さを看過してしまう。
 ちょっと状況を変えてみれば如何に奇妙かが判然としてくる。
「えっ。何ですって。主人が三丁目の山田さんところのシベリアンハスキーのジョンに噛まれて重体ですって」
「えっ。何ですって。主人が三丁目の山田さんところのシベリアンハスキーのジョンを噛んで、ジョンが重体ですって」
「えっ。何ですって。主人が未確認飛行物体に拉致されて謎の金属棒を体内に埋め込まれて、毒電波が飛んでくる、ゲロゲロゲゲゲなどと呟いているですって」
 おかしい。
 どう考えてもおかしい。
 安易な説明というものには注意せねばならぬ。
 同じように朝の風景というものの描写にも注意しなければならない。男が洗面所で顔を洗って「おい、タオルはどこだ」なんてことを言っているのを見ると我々は「ああ、この家の主なのだなあ」などと思ってしまうが、たとえばその主が毎朝便所に籠って爪楊枝で咽喉の奥をつんつん突いて「ぐええ、ぐええ」などと言うのが趣味だったとしたらどうか。そのままこれを描写しても「何だよ、あのトイレで怪鳥みたいな声を出している男は」と思ってしまう。あるいは朝食の場面で新聞片手にトーストを齧っている男を見ると「ああ、この家の主人なんだな」と思ってしまうが、その主人が黄身だけ生のままになる火加減に焼いた目玉焼きに唇をつけてちゅるちゅると啜る日課を持っていた場合、やはりこれを描写しても「あの目玉焼きをちゅるちゅるやっている男は何者なのだ。もしや、ちゅるちゅる星人か」などと思ってしまうのではないか。
 だからといって、たとえばその家の主婦が「もう、あの人ったら、いっつもトイレに籠ってぐえぐえいうのが大好きなんだから。うふふ、しょうがないわねえ」とか、中学2年生の娘が「もう、父さんったら、いっつもそんな食べ方して。もしかして、前世はちゅるちゅる星人なんじゃないの」「わははは。こいつ。ちゅるちゅる星人とは巧いなあ。父さん一本取られたね」などという説明台詞で状況を打開してはならぬ。それをもっと巧みな方法で説明すれば上質の娯楽となろうし、説明不在でおいておくならあるいは芸術になり得るかも知れぬのであるから。
 ところで、ちゅるちゅる星人って何なんだよ。


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1998/04/11
文責:keith中村
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