第80回 嘘


 子供の頃は嘘をつけない性格であった。嘘をつくことに対するものすごい罪悪感を持っていたのだ。五歳くらいの時であったか、夏の暑い日に姉と外で遊んで帰ってきた。家の外に水道があったのだが、狡智に長けていた姉が「この水道で顔に水を付着させて家に入ると、母親はひどく汗を掻いていると誤解してアイスクリームを呉れるかも知れぬのでやってみよう」と提案した。姉は蛇口を捻るとまず自分の顔に水滴をぽたぽたと付け、次に私にも同じようにした。「これでよろしい。では家に入ろう」と姉は私を引き連れて玄関をくぐった。我々の顔を見て母親は「まあ、汗だくになって」と眼をまん丸にした。途端に私は泣き出してしまった。「うええん」
 母親をぺてんに掛ける罪悪感の重圧に耐えきれなくなったのだった。あとで姉には「お蔭で計画が台無しになった」と陰でひどく叱責されたものだ。
 これほど他愛のない嘘ですらつけなかった私が、いつの頃からかとんでもない嘘つきになった。
 高校の頃は日曜ごとに、友人の家で勉強してくるだの学校にクラブ活動に行ってくるだのと言っては、三宮に出て映画を観たものだ。もちろん、参考書を買うと偽って貰った金を握り締めてである。
 大学の頃、睡眠薬やらトランキライザーやらで遊んでいていつの間にか熟睡してしまい、起きてみるとアルバイトでやっていた学習塾の講義の時間を過ぎていたことがある。慌ててアルバイト先へ向かったのだが、途中で薬局へ立ち寄り包帯をひと巻買い込んだ。それを左手にぐるぐる巻いて塾へ行った。「駅でナイフを振り回している男がいまして、取り押さえようとしたらやられちゃいました」
 大胆な嘘ほどばれにくいものである。
 大胆といえば、同じ塾でアルバイトしていた学生に猛者がいた。
 ある日、その学生は担当の授業に来なかった。下宿先へ連絡してもつながらない。
 翌日、塾に彼から葉書が届いた。「赤痢に罹りました。隔離病棟にいます」
 講師は騒然となった。葉書に赤痢菌が付着しているかも知れぬ。保健所を呼ぼうかという段になって、どうも奇妙だという話になった。だいたい隔離病棟にいる人間がやすやすと葉書を出せるものか。調べてみようということになり、塾長が彼の実家に連絡して、これが嘘であることが露見した。さぼってしまったことに対する苦肉の言い訳だったようだ。なかなか手が込んでいる。彼は即日解雇となった。
 嘘をつくためには狡猾さと知能が必要であり、それゆえそれらを持ち合わせぬ子供の嘘というのは必然として底が浅い。
 中学の頃同級生にとても可愛い女の子がいたのだが、体育の授業の間に彼女の制服が何者かによって盗まれるという事件があった。学校中捜索しても制服は出てこなかった。
 しばらくしてSという同級生の母親から学校に連絡が入った。うちの息子の部屋から女子生徒の制服が出てきたというのである。職員室に呼び出されたSは教師たちを前に言った。「タイガーマスクの面をつけた男がいきなり現れて、窓から僕の部屋に制服を投げ込んで去っていったのであります」
 まあ、事態が事態だけに教師たちもあまり事を大きくすることを憚ったのか、それ以上追求されることなく彼は放免となった。同級生たちもその件に触れることを殊更に避けていた。
 私はしかし追撃の手を弛めなかった。
「ねえねえ、そのタイガーマスクの男ってどんな奴だった」
「強そうだったの」
「身長はどれくらいあった」
「それにしてもこんな人口八千の田舎でそんな目立つ奴、よく目撃者がいなかったものだなあ」
「戦おうとは思わなかったの」
 今思えば、もし彼が逆上していればそれこそナイフで刺されても文句は言えないくらいの苛みかたである。あれから10年以上経過するが、未だに同級生の間ではSの仇名は「タイガーマスク」である。
 人の噂も七十五日などというがあれは嘘だな。 


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1998/03/09
文責:keith中村
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