第8回 世情


 私の勤める会社は、各地に小さな事業所を持っており、私の勤務する場所もそうした中のひとつである。転勤があると前の事業所の人間とは疎遠になり、全体招集の会議などでしか出会わぬようになる。
 以前に勤務していた事業所の上長、蒲生さんから電話があった。
「ちょっとコンピュータのことで聞きたいのだが」
 私はぎくりとした。
 実は彼には結構申し訳ないことをしているのだ。
 前の事業所にいた頃である。
 その頃、まだ職場にはコンピュータが導入されておらず、いろいろな業務を非効率な手作業でやることに耐えかねた私は蒲生さんに、コンピュータを導入してはいかがかと問うた。他のいくつかの事業所でコンピュータを導入しているという噂を耳にしたので、ここでもできぬものかと問うてみたのだ。コンピュータを導入するためには本部に稟議書を提出して許可を貰わねばならぬ、しかも、現在コンピュータを導入している事業所はかなり営業成績のよいいくつかの処だけであり、うちの成績では恐らく許可はおりぬだろう、というのが彼の回答であった。彼は続けて、「ところで、コンピュータがあれば何ができるのだ」と私に訊ねた。
「そりゃあ、もう、何でもできるっすよ」
 日頃から、安請け合いするのが私の癖である。あれもできるこれもできると根拠のない幻想を、ここを先途と並べあげた。蒲生さんは、なかなか興味を持って聞いていたが、最後に「でも、それは誰でも扱えるものなのか」と聞く。
 まだWindowsが3.1だった頃でもあり、決して誰でも扱えるものではなかったのだが、「そりゃ、猿でも使えるっす」などとこれまた出任せを言ってしまった。いくらぐらいするものかという問いに二十万もあれば充分であると答えると、蒲生さんは驚いて「そんなに安くでできるのか」。しばらく考え込んで、「それが本当なら私が自費で購入してもいい」などとのたもうた。
 私は無責任にも「そうしましょう、そうしましょう」などと焚き付け、遂に彼の自腹で、PC9801のノートとプリンタを購入させてしまったのである。
 もちろん、コンピュータはソフトがなければ動かない。しかも、仕事のためのアプリなどない。私はそれからしばらく仕事の片手間に自分でソフトを作った。いや、正確にはソフトを作るという私にとっては遊びのようなことをしながら、片手間に仕事もしていたのだが。
 私は教育学部国語科専攻などというコンピュータとは縁もゆかりもないところの出身、もとい、中退なのであるが、学生時代はろくに授業にも出ずにずうっと趣味でソフトを書いていたので、仕事のデータ処理のプログラムなどは簡単にできてしまった。実際にはDOS用のawkやらsedやらでちょこちょことファイル操作をすればすむようなことが大部分だったので、連続してそれらを動かすための、バッチに毛の生えたようなものを書くだけで充分使用に耐えるようになったのだ。
 ただし、コマンドラインの無愛想なユーザーインターフェースであり、ドキュメントも作っていなかったので実質私以外には誰も使えない、使い方がわからぬ、というものであったのだが。
 しかし、作業効率があがったのは事実でそれまで二、三日かかっていた作業が三分で終わるようになることもあった。そろそろ他のメンバーにも使えるようにインターフェースを整えてドキュメントを書こうかと思っていたところで、私が転勤になった。
 風の便りでは、その後コンピュータは埃を被り、作業は非効率な手作業に逆戻りしたということであった。
 そんなことがあったので、私はこの電話に身構えてしまったのだ。
 蒲生さんは言う。「最近、コンピュータとやらをやってみようと思うのだが、以前に君に言われて買ったあの機械、あれが家に眠っている。それを何とか有効に利用はできぬものか。ワープロとやらにできればそれでいいのだが」
「ええと、それはっすね」
 私はあせった。あんな386SX16MHzなどというシーラカンスみたいなCPU積んだマシン、今どき使えっこない。しかし、私が買わせてしまった都合上「あんなもんはもう使えないっすよ」などとは言えぬ。
「とにかくワープロ用のソフトを積めばいいんですよ」
「ちょっと待って。専門用語は抜きにしてくれまいか。積む、とはどういうことか」
 私は長々とコンピュータの基本的な概念、ソフトとは何かなどということを説明するはめになった。
 ふむふむとなんとなく理解した蒲生さんは続いて「では、そのワープロソフトとやらはどこで入手可能か」と訊ねてきた。
 むう。これは困った。そんな非力なマシンで動くワープロソフトなど今時売っているはずがない。そもそも95が動かねばコンピュータにあらずなどというこの時代にDOS用アプリなんぞなかなか手に入るものではない。
 私は自分を正当化するべく、世間の95一色の風潮を非難し、「いやあ、そんなわけで、なかなかそのエムエスドスちう基本ソフト用のワープロは手に入れにくいですねえ……」。
 蒲生さんは、不機嫌そうに「じゃあ、うちのコンピュータは使えないということなんだね」などという。「いやいやいやいや。決してそんなことはないっすけどね。ソフトさえあれば」だからそのソフトがないんだよなあ。「昔からコンピュータを使っている人ならきっと持っているでしょうから、そんな人探して貰ってくるとか」って、それは不法コピーだよなあ。
 よれよれの私に彼はなんだか納得がいきかねるという口調のまま、彼は「また聞きたいことがあったら電話する」といって電話を切った。

 教訓 世の中はいつも変わっているから、気をつけるべし

 本当の教訓 ダメ人間の無責任な発言には、気をつけるべし


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1997/10/27
文責:keith中村
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