第75回 ダメ人間の系譜


 古来、文字というものは権威であり、たとえば私などがこうやって飄飄と用いることあたうべからざるものであった。
 そもそも文字が崇高なものあることは、たとえばエジプトでは王侯貴族が用いる神聖文字ヒエログリフと、庶民が用いる民衆文字デモティックを分けていたことや、時代はぐっと下がるが日本において成立した当初の仮名の低い扱いを見ると明らかなわけであり、その崇高さゆえ古くは文学と政治は不可分であった。たとえば日本における為政というのは梅原さんや丸谷さん最近では井沢さんの主張するように御霊信仰であり(私は勝手に彼らを「怨霊トリオ」と呼んでいる)、それゆえ祝詞や和歌などは鎮魂の意味合いが強く、だから文学表現イコール為政であった。ところが、貴族社会が崩壊しはじめると同時に文学は政治から離れて存在するようになり、そうなってくるとダメ人間だって文学に手を染めるようになる。基本的にダメ人間はダメではあるけれど知的レベルは高く(私は除外されそうだが)、言葉を扱うのはお手のものだったのである。
 たとえば随筆の古典「徒然草」は、教科書に採られる段がたいてい教訓臭い内容なので立派な文書と思われがちであるが、それでも、連歌などという道楽から帰ってきた男が飼犬を猫又と誤解して慌てる話や、子供の悪戯で向きを変えられた狛犬を見て謂れがあるに違いないと思い込み有り難がって恥を掻く逸話などどう見てもダメ雑文にしか思えないものもたくさんある。
 時代は下って俳諧というものができる。これは正道の和歌に対するパンクムーブメントであり、つまりはダメ人間の文学であった。
 江戸時代になって庶民階級の識字率が向上するころに現れた戯作者にはことごとくダメ人間の色合いが濃い。
 この系譜は近代以降も脈々と続く。近代以降文学の主流は小説なのであるが、言文一致運動の体現者二葉亭四迷の筆名の由来が父親から言われた「くたばってしまえ」であるのは有名な話である。兄貴分の坪内逍遙だって山田風太郎の明治小説で見る限り相当なダメ人間である。まあ、これは何の傍証にもならぬが。
 明治文学のダメ人間の首魁はなんといっても夏目漱石であろう。最近「猫」を読み返したのだが、改めてこの小説のふざけ具合に驚いた。「猫」はかなり私小説的な側面を持っておるから、ここに描かれる人物のモデルである夏目漱石、寺田寅彦はじめ明治の知識人の言動がこの小説にはある程度忠実に投影されているはずだが、彼らの地に足がついていないダメ人間ぶりには瞠目するものがある。そもそも現代ですら東大卒というと官僚への道が開かれているのであり、むろん当時としては今以上に東京帝大は権威があった筈だが、そういう大学を出ているにも拘らず夏目漱石は中学教師、朝日新聞記者(当時の新聞は今よりはずっと社会的地位が低いメディアであった)、小説家(これも当然社会的地位は低い)という道を歩む。なんという才能の無駄遣いか。低徊趣味というのはまさにダメ人間指向である。
 余談になるが、「猫」を再読して気づいたこと。第二章以降、しばしば「吾輩も有名になったものだ」という記述がある。一章で苦沙弥先生が猫について知人に触れて回るくだりがないので、これは「『猫』が『ホトトギス』に掲載されたゆえ知名度があがった」という意味になる。すなわち、ここ最近流行っているところの「メタフィクション」的構造を夏目漱石はすでにあの時代にやっていたのだ。やはりただ者ではない。
 大正昭和と時代がくだってもダメ人間が輩出する。太宰治、安吾、壇一雄、織田作などなど。無頼派と呼ばれたりもするが何のことはない、ダメ人間である。彼らは「ダメ人間ですみません」とか「ダメ人間になって生きよ」などと言ったわけだ。
 これら古典的ダメ人間の最後を飾ったのが色川武大/阿佐田哲也であろう。
 そして現在のダメ人間としては赤瀬川原平/尾辻勝彦、同じく芥川賞作家の保阪和志(サラリーマン時代に上司から「君、仕事はいいから小説でも書いてなさいよ」と言われた逸話を持つ)、中島らも、そして音楽界から文学へと乗り込んでてきた大槻ケンジ/大槻ケンヂや町田康/町田町蔵が挙げられる。町田康の小説は凄い。なにしろそこに描かれるのは「酒呑んでテレビ観て酒呑んでテレビ観て酒呑んでテレビ観て酒呑んでテレビ観る」という究極のダメ人間なのだから。
 ところで、古典的ダメ人間と近代的ダメ人間の違いは何であろう。古典的ダメ人間には、たとえば先程挙げた「無頼派」に代表されるように恰好良さやダンディズムの香りが漂う。それにひきかえ、近代的ダメ人間には恰好良さというものがちっともないのだ。「ダメです。まるでダメなのだ」ということしか伝わってこないのだ。
 つまり最近のダメ人間には衒いがないのだ。「あれれ。無頼派なんて言つても、結局はダメ人間ぢやないか。それならいつそのこと開き直つてただのダメ人間としてやつていかうよ」ということに気づいたのだ。批評眼を持つ時代になったのだ。無頼派−ダンディズム=ダメ人間なのだ。
 そんなわけで、「今、ダメ人間がホットだ」とか「これからはダメ人間の時代だ」などと自己弁護するのですが、そういうのってやはりダメなのでしょうか。


新着順一覧 − 日付順一覧 − 前を読む − 次を読む − トップページ


1998/02/26
文責:keith中村
webmaster@sorekika.com