第74回 エスパー


 超能力者という奴は胡散臭い。そもそもがイカサマだろうから、胡散臭いのは仕方がないとしても、スプーンをこっそりと力で曲げているのがばれたり、念写と称して事前に撮影してきたフィルムと入れ替えるのがばれたりというミスは情けない。超能力者諸氏においてはこういった不注意にはくれぐれも注意されたい。そういえば昔、ワムというコンビがうっかりものの超能力者をテーマにした歌を唄っていた。たしか「ケアレス・エスパー」といったか。
 超能力は「超」能力なのであるから、実在すればこれはもうかなりのものであるのだが、どうしたことか世の中の超能力者は口を揃えて「こういう能力は誰にでもある」と言う。誰にでもあれば超能力ではなく、「汎」能力になってしまう筈だが、ともかく彼らはそういうのであった。ただし、普通の人はそれを発現させる訓練をしていないだけなのだ、と彼らは主張する。
 これを信じてテレビの前でスプーンを握り締めたり、壊れた時計をさすったりした経験をお持ちの方もいらっしゃろう。私はやった。
 それにしても、この「誰でもやればできる」という思想はいったい何なのだろう。私は駄目人間であるから、世の中頑張ってもどうにもならんこともあまた存在するのだという信念を持っておるのだが、世の中には「努力さえすれば何でも叶う」という幻想を信じて疑わぬ人も多いようだ。だいたい、おかしな話ではないか。プロ野球で三冠王になった選手が「この力は誰にでもあります」などというか。東大主席の奴が「こんなもの、誰でもなれるっす」などというか。カレー大喰いチャンピオンが「これくらい、誰でも食べられるっすよー」などというか。
 つまり、超能力者に欠如しているのはプロ意識である。過酷な競争に勝ち抜いてきた勝者としてのプロは決して「誰にでもできる」などという甘えた意識は持っておらぬ。彼らには努力だけでは決して不可能なことを成し遂げる才能があり、その才能に裏打ちされた自信があり、それゆえプロはプロであり、それこそがプロ意識なのである。まあ、「プロの超能力者」というのも妙な話ではあるけれども。
 あるいは「誰にでもこの力はある」という超能力者の謂は、世間の反感を買うことを恐れての発言であるのかも知れぬ。そもそもが超能力などというあまりに胡散臭いものを扱うわけだから、世間が素直に受け入れてくれるわけがない。ましてや、「こんな凄いことできるのは世の中で僕くらいのもんっすよねー」などと言った日にゃあ、下手すれば袋叩き魔女裁判市中引き回しのうえ磔獄門遠島島送りだ。そこで、「いや。こんなもんね、誰にでもあるんだけどね。そう。たまたま。たまたま僕はね、発現させる方法を見つけただけなのよ。ま、そいうことなのよね」という逃げ口上に出るのかも知れない。
 とどのつまりは民主主義なのだろう。普く全ての人びとが平等な社会。超能力の機会均等である。民主主義においては、人間ひとり一人はきちんと顔を持った個人として扱われる。エブリバディ・イズ・ア・スターなのである。人間一人の命は地球よりも重いのである。個人の辞書に不可能の文字はないのである。
 これは新興宗教にも見られる構造である。宗教の要素に「大いなる力の庇護を受けて幸福を享受する」という意味合いがあるのは間違いないだろう。このため仏教キリスト教など古参の宗教では、神仏による救済を目標に信仰をするのだが、そこには民主主義的な平等性はない。あくまで神仏のおわす場所にゲストとして到着できることが信仰の目的なのである。ところが新興宗教、たとえばオウム真理教で言っている「解脱」というのはもっと平等な概念のような気がする。もちろん、オウム真理教ではレベルに応じてかなり堅固なヒエラルキーが存在することは周知の事実であるし、また教祖麻原に対する信者たちの崇拝も並々ならず強いものである。しかし、その崇拝はむしろ「目的地へいちばん乗りしたものへの尊敬」のように思えるし、信者たちは「努力すればいつかは自分もゲストとしてではなく、対等の境地に立てる」という非常に民主主義的な甘えた幻想を抱いているかのようにも見える。
 すなわちオウム真理教はじめ最近の新興宗教の興隆はその民主主義性にあるのだ。
 しかし、駄目人間としてはこういうみんな平等なんだよ、という異端を許さぬ社会というのはどうも息苦しくっていけない。頑張ってもどうにもならないことだってあるんだからさ、もっと肩の力を抜いて行こうよ、と思ってしまうのである。
 それはさておき、英語には 'be born with a silver spoon in one's mouth'(銀のスプーンを咥えて生まれてくる)という表現がある。これは「高貴な生まれである/金持ちの家に生まれる」という意味の慣用句で、THE WHOが「恋のピンチヒッター」(なんという邦題だ)という歌でこれをもじって「おいらはプラスティックのスプーンを咥えて生まれてきたのさ」と貧困を唄っていた。超能力というとすかさずスプーン曲げをイメージするわけだが、こうやって考えてみると高貴な生まれ、身分社会の象徴たるスプーンを曲げるという行為はもしかしたらなかなか過激な民主主義的思想の顕れなのかもしれない。もしそうならロケンローラーの私としては、フラワームーブメントにも通じるこのアメリカ西海岸的左翼的過激な民主主義としての「誰にでもこの力はあるっすよー」という思想は支持するのにやぶさかではないのだが。
 なんていうのは、深読みかな、やはり。


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1998/02/21
文責:keith中村
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