第7回 みすあんだーすたんでぃんぐ


 であるからシニフィアンとシニフィエの結合は恣意的なものであるわけです。いきなり小難しい書き出しになったが、「ことば」とそれの意味する「内容」は堅固たる結合をしているわけではないのだ。筒井康隆氏の昔の文章に、「マガジン」という言葉を筒井氏は「SFマガジン」の意で、話し相手は「少年マガジン」の意で使っていたので話が噛み合わないというのがあったが、こういったミスアンダースタンディングはどこにでもあるものですとジョン・レノンも歌っている。
 ドップラー効果、という言葉があるが、これを「波動の源と観測者が相対的に運動している時、観測者が測定する振動数が波源の振動数と異なる現象。音波・電磁波特に光で見られる。光に見られる例の代表は宇宙が膨脹している根拠となる赤方偏移である」と把握している者もおれば、「ああ。あれ、あれ。救急車がさ、その、ピーポーピーポーピーポーピーポー、ほらほら、そうやって音程が変わるんだよ」と認識しているものもいる。
 これは単に無知か通暁しているかの差異であろうか。それだけではない、と私は考えるのだ。現代という時代では、かつて例を見なかったほどに新しい言葉が作られ、あるいは流入している。かつて例を見ないというと、明治時代を想起してこれを反駁する人があろうかと思うが(と書いていて気がついた。ほとんどの回でこういう反論を意識した弁護かましてるなあ)、あの時代には数多の碩学があったのでそれらを十分に吟味検討し咀嚼することができた。だが、現代ではこれらの言葉は無批判に流入し、あるいは通過してゆくのみで、我々にはそれらを捕捉することすら困難であり、よし捕捉できたとしてもその頃にはすでに胡散霧消していたりするものなのである。
 そんなわけで、現代においては、「ことば」の内容の疎密どころの話ではなく、まったくの虚無という事態すら発生するのである。
 先日、電車に乗っていたおり。学生らしき二名の若者が話している。
「ほんまに山田のやつ、パシリが向いてるよなあ」
「まったく。俺が出世したらあいつを召し使いにしたる」
「いやあ、俺なら奴隷にしたる」
 なんと嘆かわしいことか。我々の世代ではこういった下らない話はせいぜい中学生の頃までしかしなかった。大学生にもなって、こんな話をするとは。我々の世代ではありえぬではないか。もっとも、俺はいまだにするけどね。大好きだし、こういう話題。
 そんなわけで、聞くともありに聞いていると、ひとりがこう言った。
「ちゃうちゃう。やっぱりあいつを執事にしたる」
「おおっ、執事か。それ、ええやんええやん」
 そしてがははははなどと笑い合っていたが、ええやんええやんと賛同した方がぼそりと言った。
「ところで、執事て何や」
 言われた方、暫し沈黙して考えしのち、
「……し、知らん」
 いやあ、しかしこれだから大阪住まいはやめられない。関東もんに言わせれば、大阪は日常生活が吉本新喜劇であるなどというが、信じてはいけない。それは本当だ。
 列車が梅田近辺を走っていたのは僥倖である。なんとなれば、もし難波近くであったなら、この言葉で乗客全員新喜劇よろしくずっこけていたに違いないからだ。
 なんだか、話がずれてきているような気がする。しかも、この車内の会話の例はただの馬鹿のようにも思う。
 唐突に話題は変わる。筆者の中ではミスアンダースタンディングという一貫したテーマがあるのだが、唐突に変わるのである。わたくしは「ロックは叛逆の音楽だぜえい、いええい、いええい」だの「三十歳以上は信じるなよ、べいべえ」(もうすぐその三十なのだが。とほほ)だの、「せっくす・どらっぐ・ろっけんろお、しぇきらあ」などという馬鹿世代の末席を汚しているものなのだが、どうも最近のロックの扱いが気にいらぬ。
 ニュー・ホライズンという中学英語の教科書がある。私自身、洟垂れ中学生の頃この教科書で学習したものだが、それから何度目かの改定を通過したニュー・ホライズンは呆れて開いた口が開きっぱなしになろうかという代物になっているのだ。中学三年のユニット5という単元があり、ここでのテキストはロックの歴史なのである。五十年代から八十年代に到る四十年間のロックの歴史を解説しているこのページには時代を代表するロックシンガーやグループの写真も数葉掲載されている。
 五十年代「エルビス・プレスリー」
 六十年代「ビートルズ」
 七十年代「アバ」
 八十年代「マドンナ」
 ん、なんか変だ。げげ。アバ。なんでアバなのだ。エルビスや、ビートルズと同格になんでアバがいるのだ。お前らなんざ「アバです。アバですみません」と隅っこに引っ込んでいればよいのだ。ジミヘンはどうした。パープルを出せ。ええい、ツェッペリンはどこにいるのだ。などとおじさんは激怒してしまうのです。あまつさえ、巻末の英語の歌のページ(私の時にはたしか、「サウンド・オブ・ミュージック」から表題曲と「ドレミの歌」だった)には「ダンシング・クイーン」のスコアが掲げられているではないか。だんしんくいいん、だんしんくいいん、などと授業中に歌うのか。そんなことでいいのか学校教育は。アバなんだぞ、アバ。しかもBのひとつはひっくりかえってるんだぞ。君達、気を確かに持ちなさい。よろしいか。
 次のページにはジョニー・ロットンが目ん玉剥き出して歌っているアップの写真がある。さすがに教科書だけあって「セックス・ピストルズ」という名前はないのだが。キャプチャーには「パンクと呼ばれる若者たちは怒りを音楽に込めて自分たちを主張しました」などという英文がある。なにかが違う。
 しかも。
 私に教科書を見せてくれたとある中学生のそのページに掲載されたジョニー・ロットンの写真には「髯」と「眼鏡」が落書きされ、グルーチョ・マルクスみたいになっていた。
 お、おお、お前ら、ロックをなんだと思ってるんだっ。
 嗚呼。ロケンロー・イズ・デーッ。


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1997/10/24
文責:keith中村
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