第69回 記憶の恐怖


 大学時代のこと、益田という友人が、先日こんな話を聞いたといって、怪談を教えてくれた。
 雪山で吹雪のため山荘に足留めをくらった二人の男。口論になったかなにかで一人がもう一方を殺してしまう。処置に困った死体を男は外の雪に埋める。それから部屋に戻りうたた寝する。ふと目覚めると、殺した筈の男が暖炉の前に膝を抱えてしゃがんでいる。ぞっとしたが、よく見ると生きているわけではなくやはり死体である。男はもう一度死体を雪に埋める。部屋に戻ってうとうと。はっと目覚めるとまた死体が暖炉の前にいる。三たび埋める。うとうと。気づくと暖炉の前に死体。
 翌朝捜索の一行が山荘にやってくると、狂った男が雪の中から死体を掘り起こし暖炉の前にしゃがませては、その死体に驚愕しまた雪に埋めるという行動を繰り返していた。
 夢枕獏の「綺譚草子」という短篇集に収録されているので、読まれた方もいるだろう。私も益田からこの話を聞いてしばらく経ってから夢枕獏の作品を読んで、ああ、この話だったのだな、と判ったので益田に会った折り、「以前話していた怪談だけど、夢枕獏の本にあったね」というと、益田は訝って「どの怪談だ」という。雪山のやつだよ、と説明すると益田はますます不審な顔つきになって、何を言っているのだ、それはお前が俺に話してくれたのではないか、と言う。
 えっ。何だって。思い違いじゃないのか、と訊くと、お前こそ、と返す。
 そんな筈はない。確かに私は益田からこの怪談を聞いたのだ。益田の淡淡とした口調の怖さも覚えているし、それ以前に聞いたことなど絶対なかった話だ。他の誰かから聞いたのを益田からだと勘違いしているわけでもなければ、ましてや私が益田に語った記憶もない。
 いったい、どういうことだ、と首を捻り、薄気味悪いものを感じた。
 もっと気味が悪いことには、夢枕獏の短篇にあったこの同じ話も、誰かの小説だとは思うがいつ読んだのか、誰の作品か忘れてしまった、もしかしたら人から聞いたのかも知れぬという前置きのもとに紹介してあったのだ。
 つまりこの話にまつわるいろいろな構造がすべて「捻じれたループ」になっていたのだ。怪談そのものが気づかずに自分で死体を運んでいる男という循環行動であるし、短篇の前置きもそういった趣がある。更に私と益田の間でも話の出所が奇妙な循環構造になっている。
 得体の知れない恐怖を感じたものだ。
 意識がなくなるまで酩酊した経験もないので、記憶が揺らぐ恐怖というものを味わったのはこれが初めてだった。
 ところが最近は素の状態でこういうことがしばしば起る。人に何か言うと(私のことであるから、これは新しい情報やら何らかの蘊蓄を自慢げに喋るのであるが)、「それはこないだ聞いた」などと言われるのだ。そう指摘されてから、はっと思い出し「いや、なに。その。忘れてたらいけないからね。その。確認のあれだよ、あれ」と胡麻化してみたりするが、相手は「あれってどれだよ」などという眼でじっとこちらを見つめる。あるいは何か教えられたときに「へえ。そうか。それは知らなかったなあ」なんて言うと「……こないだも、言ったろ」と吐き捨てられたりする。
 どういうことか。これでも一応まだ二〇代ではある。惚けるには早い。
 それに以前は映画の俳優やら監督やらを忘れるということは決してなかったのだが、最近では思い出すのに矢鱈に時間がかかる。中でも一度「忘れ癖」のついた人名は、ようやくと思い出してもまたすぐに何度でも忘れてしまう。
 いちばん「忘れ癖」のついている俳優は、イギリスのあの、ええと、あれ。何だっけ。
 冗談じゃないのだ。いや、ほんと、まじで、何だ。なんということだ。またしても忘れてしまった。
 あれですよあれ。細面で髭生やしてて、いかにもイギリス紳士みたいな小父さんで、そうそうそう、「ナイル殺人事件」で警部やってた。いや、ピーター・ユスチノフじゃなくって、それはだってポワロでしょ。あのピンクパンサーの何作目かが遺作になった。「カジノロワイヤル」にも出てたでしょ。「旅路」でオスカー取った、あの人、あの人。
 こうやって周辺の事柄はずらずら出てくるのだが、肝腎の名前が出てこない。雰囲気は出てきてるのだ。なんか「ー」が入っていそうな名前なのだ。ふーふふー、みたいな。くう。誰か教えてくれい。
 武者小路実篤にこんなエピソードがあるというた。晩年の武者小路のところへ編集者が依頼した随筆を貰いに行った。受けとってその場で読んでみると、はてどこかで読んだことがある内容。さては御老体、惚けてなさるか、同じネタで書いたな、しかし言い出したものかどうか。迷った揚げ句、「先生、この作品ですが……」とうとう切り出すと、武者小路翁、本棚から自分の全集を取り出してぱらぱらページを繰りにこやかに編集者に差し出した。編集者が見ると寸分違わぬ内容の随筆だ。惚けて同じ内容を書いたのではなかったのだ。ちゃんと以前に書いたものを記憶しておる。問題は彼が惚けて、「同じものを二度書いてはいけない」という判断ができなくなっていることだった、という話である。
 文壇アルツハイマーの横綱(なんだよそれ)が武者小路ならば、芸能界アルツハイマーの横綱は森繁翁であろう。今や日本アカデミーのプレゼンテーターか、自分より若い俳優が亡くなったときにカメラに向かって「私みたいな年寄りが残って、どうして彼が。よよよよ」と涙を流す姿しか見られなくなった森繁翁であるが、目の前の俳優の名前を呼び間違えるなど日本アカデミーの授与式での惚け振りはナンシー関のエッセイに詳らかである。
 しかし小林信彦によると森繁は「惚け」ているのではなく「ボケ」ているのだそうだ。つまりコメディアンとして「ボケ」ているというのだ。小林信彦があるエッセイで、あからさまにナンシー関のこととは書いていないが、「そんなことも見抜けないくせにコラムを書くな」と怒っていた。いったいどっちが正しいのだろう。 


新着順一覧 − 日付順一覧 − 前を読む − 次を読む − トップページ


1998/02/14
文責:keith中村
webmaster@sorekika.com