第67回 一人称代名詞


 一人称は人間を規定すると、全ての言葉を言ったと伝えられるニーチェが言ったかどうかは知らないが、あちらの国では一人称はイッヒしかないだろうから、言ってないのかもしれない。それでも日本語においては多彩な一人称が存在し、それによって人間そして人格は規定される。
 私は文章に於いては私のことを主に私と書くが時には私のことを僕と書く場合もありさらに時折は私のことを俺などとも書くが、私は私のことを拙者であるとか吾輩であるとか身共であるとか書いたことはない。
 大阪では自分のことを自分という人も多く、また二人称つまり相手のことも自分と言ったりするのでややこしく、「自分は自分のことを自分て言うけど自分だって自分のことを自分というから自分が自分と言うときには自分のことを言うてんのかそれとも自分のこと言うてんのか自分では判らへんやん」などという他国語に翻訳不可能なことを喋ることもある。
 現代語の一人称はそれでも古語よりはバリエーションが少ない。古語には本当に多彩な一人称がある。これを巧く利用すれば時代劇や歴史小説ドラマにおいて、少ない情報でも登場人物を生き生きと描写できるのではなかろうか。
「うむむ。拙僧は一介の百姓。決して僧侶などではない」
 語るに落ちるというやつである。
「あちきは武士の妻でありんす」
 吉原から落籍かれたことが丸判りだ。
「へ。とんでもねえ。麻呂はただの町人でござる」
 たったこれだけで、この人物が一見町人であるがしかしその正体はお侍様、しかも実のところ本当はお公家様であるという歌舞伎のようにややこしい設定がするりと観客の頭に入ってくる。ね。
 話は変わる。
 私の住む大阪にもうすぐストーンズがやってくる。ローリング・ストーンズである。ロック命、森高のなんとかいう歌の詞ではないが、九十年の初来日の折には東京ドームに三度も行ったぜという私としては嬉しい限りである。また、あのキース・リチャーズの「腹にナイフでも刺さってんのか」と突っ込みたくなるギターの弾き方を目前で見られるのである。
 ところで不思議なことがある。それはミック・ジャガーの一人称だ。音楽雑誌などで見かけるミック・ジャガーの発言は何故か「おいら」という一人称で語られることが多い。
「ポールだって。あんな奴メじゃねえな。おいらが本物のロックを聴かせてやるぜ。グルーブだぜ」
「おいらも歳をとっちまったからな。食事は菜食に切り替えたし、ジョギングだって毎日欠かせねえぜ。健康でなきゃ、ロックは続けらんねえからな」
 といった塩梅である。健康的なストーンズなんて魅力ないぞ、と思うがそれはそれ、問題は「おいら」である。
 なんだろう、「おいら」とは。何かしら。
 ミックはどう考えても 'I'という一人称を使っている筈だ。まあ、時には「アイァ」などとやや不良がかった発音もしようが、基本的に英語には'I'以外の一人称はない。それを「おいら」とは何事ぞ。考えていただきたい。あなたの周囲で「おいら」などとたわけた一人称を使用している人間がいようか。いや、いまい。いたら跳び蹴りだ。昔だったら切腹だ。
 どうも、「ロック」イコール「おいら」という誤解が生じているようだ。なかなか恥ずかしい。起源は石原裕次郎か。「おいらはドラマー。やくざなドラマー」である。この野郎、かかってこい。最初はジャブだ。やりやがったな。チンだ。フックだ。パンチだ。府知事だ。
 いや、しかしそれより前からバンドマンは「おいら」という一人称を使うものだという暗黙の了解のようなものがあり、この歌詞が生まれたのかも知れぬ。今調べたら作詞はなんと「嵐を呼ぶ男」の名監督井上梅次である。
 こんな替え歌を思い付いた。
「オイラーは数学者。やくざな数学者。オイラーが怒れば多面体定理を呼ぶぜ。この野郎、かかってこい。最初は微分だ。積分だ。トポロジーだ。a0−a1+a2=2だ。この辺でノックアウトだい」
 字余りか。
 とにかくミック・ジャガーの場合にはもうすっかり「おいら」が定着してしまったようで、以前便所の落書きに唇の分厚い西洋人の絵を見かけたことがあるが、そのスピーチバルーンにまで「おいらがミックだぜ」とあった。ベガーズ・バンケットなんていう便所の落書きをジャケ写にしたアルバムを出したこともあるだけに、こんな極東の国の便所にそうやって描かれるのもミックには本望かも知れぬ。そんなことないか。
 さて、思い出すのは九十年のストーンズ初来日である。
「スタート・ミー・アップ」から始まった怒涛の盛り上がりのさなか、ミックはたどたどしい日本語でこう言った。
「ニポンのみなサン、コンバンハ。ワタシはニポンに、くーのを、ずと、待てますぃた」
 数万の観客が引いた。すう、という音が聞こえそうな引きかたであった。やはりあの時、みんな思ったのだろう。
「あれ。『おいら』じゃないぞ」
 少なくとも私はそう思ったのだがな。


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1998/02/11
文責:keith中村
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