第57回 メーと鳴く者


 豚さんなのではなかったのだ。羊さんなのだ。羊さんは牛さんよりもげっぷをやるのだそうだ。恐るべし、羊さん。羊さんは沈黙などしてないのだ。始終げっぷをやらかすのだ。そういうわけで、みなさん羊さんにはご注意ください。それにしてもフロン全廃のごとく羊さんを全廃することは現実的に不可能なわけで困ったものである。なにしろ羊さんは人類にかかせないものである。昔から言うではないか。「暮らしの羊品」と。
 のっけから駄洒落など書いてしまった。不覚だ。海より深く反省。ちっとも反省しとらんな。
 羊といえば、フレイザーの「金枝篇」にこんな一節がある。未開民族のタブーを論じたくだりである。
「親族の一人が『羊飼い』と呼ばれているとすれば、羊という名を口にしてはならず『メーと鳴く者』と呼ばねばならない。もし彼の名が羊というのであれば、羊のことは『若いメーと鳴く者』と言い表さねばならないのである」
 名前は軽々しく呼ぶものではない、というのはどこの地域にもあったタブーのようで、日本でも高貴な人間には謚号というものがあった。名前を呼ぶことは、相手を呪術的に支配することになるので避けるべきだというわけで、ゆえに神の名をみだりに口にしてはならぬという禁忌もある。映画「ブルース・ブラザーズ」には、主役のベルーシとアイクロイドが孤児として育てられた修道院に戻ってきたとき、「ジーザス・クライスト」と悪態をついたために、尼僧から「神の名を軽々しく言うんじゃないよ」と打擲を受け、その痛さにまた「ジーザス・クライスト」、「まだ言うのか。ぺしぺしっ」「いてて。ジーザス」「よしなさい。ぺしぺし」「痛えよ。クライスト」「ほんとにあんたって子は。ぺしぺしっ」「ジーザス」という循環ギャグがあった。
 それはともかくとして、「メーと鳴く者」というのは不自由な言い換えである。だいいち山羊だってメーと鳴くではないか。そこのところはどうなっているのだろう。「角がある方のメーと鳴く者」「角がない方のメーと鳴く者」などと区別するのだろうか。
 たとえば、その「羊飼い」の親父の名が「羊小屋」であり、祖父が「餌」であった場合はどうなるのだ。
「羊小屋に行って羊に餌をやってこい」と言いたければ、「あー、その、メーと鳴く者の、なんだ、その、メーと鳴く者の居住空間に行って、メーと鳴く者が食するところの、あれだよあれ、をメーと鳴く者に与えてこい」とでもなるのだろうか。だいたい羊に餌をやるという行為はそういう地域ではとても日常的なものだろうから、その度にいちいちこんな回りくどい言い方をするわけにもいかぬだろう。どうするのだ。案外、「ちょっとアレしてこい」などと省略されるのかも知れぬ。言語の簡素化だ。
 あるいは、祖父が「うわっ」、親父が「びっくりしたなあ」、息子が「もう」という名であった場合はどうだろう。
「うわっ。びっくりしたなあ、もう」これが言えぬのはちと辛い。
 背後から「わっ」と驚かされた場合などでも、「うわっ。げ。やばい。もとへ。今のなし。唐突なる心理的衝撃によって自動的に発せられるところの言語になるかならぬか未分化の状態の音声。驚愕驚嘆驚倒騒然それらを意味する精神状態を表す中でもっとも平易なる語の指し示すところの状態に現在完了的時制において到達する。牛の鳴き声」。
 なんてややこしいのだ。三波伸介には咄嗟に言い換えが効くまい。
 あるいは言語と言うのは、そうやって言い換えを繰り返すうちに、修辞法が発達してどんどん高度になってゆくものかも知れない。とすれば、現在のこの言語自主規制、言い換えの時代は、言語が更なる段階へ発達してゆく予兆ででもあるのだろうか。
 言語はいったいどこへ行こうとしているのか。
 ってゆーかあ、私の言いたいこと? の結論? って何なのかなあ、って感じい、みたいな。
 うぬぬ。メーとでも鳴いとれ。


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1998/01/24
文責:keith中村
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