第55回 裏窓


 ヒッチコックの「裏窓」は有名な作品だろう。脚を骨折したカメラマンがアパートの自室で療養中に裏窓から向かいのアパートを覗き見るうち、殺人事件に巻き込まれるという、くだくだしいのでこれくらいにとどめるが、まあそんな話である。ヒッチおじさんの最高傑作と名高い作品であり、といっても彼には「最高傑作」が十本くらいはあるのだが、ともかく私がこれを初めて観たのは高校三年生のころであった。グレース・ケリーが二番目に美しい映画である。いちばんは「上流社会」。独断ではあるが。同意してくれる人は多いのではないか。
 いっぱしの映画通きどりであったので、観たことがない映画に関してもあれこれ知識は仕入れていたから、まったく予備知識なしに映画を観ることは少なかった。だがこの映画ほど、観る前から知りつくしていたものはない。
 というのも、その前年のことである。たいへん映画好きの英語教師がいた。まあ、英語教師というのは概ね映画好きだったりするものであるが、授業の合間にいろいろと映画の話をしてくれて、私には楽しかった。いつだったか、あれはカリキュラム上授業がだぶついてしまったからなのか、彼が言った。
「今日はね。授業の代わりに、私がこれまでに観たなかでいちばん面白かった映画の話をします」
 いつもにこにこしたおじさんだったのだが、この時は普段にも増して笑い顔になっていた。もう、この話ができて幸せだといわんばかりの表情である。
「私の大好きな監督にヒッチコックという人がいますが、私がいちばん面白かったのは」
 おお。僕も大好きですよ。先生がいちばんと仰っしゃるのはどれでしょう。「知り過ぎていた男」か、「サイコ」か、はたまた「北北西に進路を取れ」か。ちなみに僕は「疑惑の影」だな。などと考えていると、
「『裏窓』です」
 ふうむ。あの名高い「裏窓」であるか。なるほど。俺はまだ観てないんだよなあ。なんて思っているうちに彼はどんどん筋書きを話し始めた。
 私にとって不幸なことは二つあった。ひとつは彼がたいへん上手なストーリーテラーであったこと。もうひとつは彼が映画マニアであったこと。
 彼は驚嘆するような記憶力を駆使し、例の「カメラが棚の写真をパンしてジェームス・スチュアートの脚のギプスの落書きまで辿り付く」というカメラワークから始めて、微に入り細を穿って語り始めたのだ。
 映画を話すときにやってはならないことがある。全部を話してしまうことだ。ところがこの時彼にはおそらく浜村淳が憑依していた。あまつさえ和田誠まで憑依していた。浜村淳の、あの隅から隅まで話してしまうという話法に、和田誠ばりのカメラワーク解説付き。しかも私にとって「裏窓」は、観たい観たいと思いながらまだ観ていない映画だったのだからたまったものではない。予告通り授業時間全部を使って彼は「裏窓」のすべてを話しきった。
 これは辛かった。
 テレビの淀川長治さんの枠で「裏窓」が放映されたのはその翌年である。まあ、それだけ完璧に情報を仕入れてから観てもべらぼうに面白かったのはさすがにヒッチコックだけれど。
 思うに、推理小説好きに対するいちばんの拷問は、彼がまだ読んでいない作品の犯人を耳を塞げないようにした上でどんどんばらすことではないか。
「あのねえ。『アクロイド殺し』の犯人はねえ、吃驚するよ、実はねえ」
「『ロウフィールド家の惨劇』はねえ、まず犯行の動機がものすごいんだけどねえ」
「『そして誰もいなくなった』はねえ、これは凄いよう、あのねえ」
 ま、推理小説通ならどの道その辺りは基本としてすでに読んでるか。とりあえず恨みを買いたくないんで、ここには犯人は書かないでおくけれど。
 話はがらりと変わって私の仕事場のことである。ベランダというか、空調の室外機を置いてあるスペースがあるのだけれど、ここからの眺めがまさに「裏窓」のセットそのものなのである。距離感も向こうの建物もちょうど同じ具合になっている。
 仕事場は禁煙なので、私は煙草を吸うたびにこのベランダに出ることになる。今の季節は辛い。
 もちろん、向こうの窓で殺人事件が発生したり、ヒッチコックが時計のぜんまいを巻いていたり、うら若き女性が着替えたりしていることはないのだが、それでも、呼び鈴を押す来客と、それに答えて住人が部屋を横切って玄関にやってくるところなどが同時に見えたりするのは、吉本新喜劇のような眺めでなかなか面白い。
 ところが、ちょうど「裏窓」で殺人者のレイモンド・バーの部屋に対応するところに、どうやら「や」で始まる自由業の人が住んでいるようで、ふと眼があったりするとぎろぎろと睨めつけてくる。これが結構恐ろしい。
 そのうち、「何をじろじろ見てやがる」などと怒鳴り込んでくるやも知れぬ。応戦用のストロボでも用意しておくかな。
 ということで、今回は「裏窓」を観てない人にはさっぱりの内容にて失礼。


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1998/01/21
文責:keith中村
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