第44回 手を振る


 駅は別れの場所である。そこで繰り広げられる別れは、今生の訣別といった劇的なものから、「また明日」という軽いものまでさまざまだ。仕事からの帰宅の折りなどに若人の別れの場面をしばしば見掛ける。いつからそうだったのだろうか、近ごろの女子の人の別れ際が、いささか妙な具合になっているようだ。
「さようなら」「さらば」「ではまたね」などの挨拶が滅多なことでは口にされなくなってから久しく、現在耳にするものはもっぱら外国種であるところの「バイバイ」である。ちょうど蒲公英やザリガニと同じ塩梅である。何も私はそれに苦言を呈するつもりではない。問題は、それを口にするときの女子の人の動きである。
 別れの言葉と同時に手を振るという習慣がいつ頃からあるものかは知らぬが、少なくとも私が物心ついた頃にはすでに存在していた筈である。
 別れぎわに手を振るという行為は、通常は以下のように行うものだろう。
 まず腕の選択である。どちらの腕でも特に問題はないが、一般的には利き腕を用いるのが無難だろう。もちろん、特定の腕に荷物を持っているとか、ポケットに入れていて抜けなくなったとか、片手が先天的後天的に欠損しているとか、宗教上の理由とか、祖父の遺言とかで、自ずと使用する腕が規定されることもある。
 使用する腕が決定されると、その腕の肘から先の部分を持ち上げることになる。このとき忘れてはならないのが、掌を前方に向けることである。だが人間にとっていちばん自然な掌の向きは体側に沿った状態であり、掌を前方に向けるという行為はやや筋肉に負担を強いる形であるから、この際くれぐれも筋を違えるなどということにならぬよう注意が必要である。持ち上げる高さは場合によっても異なるが、標準的には掌が鎖骨の高さにほぼ等しくなるくらいでよい。あまり低いと、ますます筋肉に負担を掛けることになるし、顔部の横にまで持ってくるとこのあといよいよ手を振る段になって、自らの顔面に掌が激突することになる。上腕部と脇の間には握り拳ひとつ分くらいの隙間があるのがもっとも楽な姿勢である。
 さて、準備が整った。あとは肘関節を軸にして掌を左右に小刻みに振動させればよい。振幅は六十度くらいが適切だろう。十度未満であると痙攣していると誤解される危険があるし、百度くらいになるとやや見苦しくなる。百八十度以上の振幅は通常の骨格ではまず不可能である。
 回数は三回から五回が最適。十回以上おこなうと、相手に立ち退くきっかけを損なわせることになり、お互いが気まずい思いをせねばならなくなるし、百回以上おこなうと何らかの低級霊の憑依と間違われることもある。千回以上おこなうと向心力で血行が悪くなりいささか危険な状態となるし、一万回以上おこなうと、確実に白蝋病になる。
 以上が手を振るという行為の詳細であるが、なんと昨今の女子の人の動作はこれとはまったく異なっている。
 まず、上腕部を上げる高さ。上腕部を脇から直角に、つまり前方から見ると肩と二の腕がほぼ横一直線になるまで持ち上げる。そして、手を振るのだがこのとき支点となるのは肘ではなく肩である。上腕部を含めて腕全体を振るのだ。肘関節がやや折り曲げられているため、掌が右に行くと肘が左に移動し、掌が左に行くと肘が右に移動し、ちょうど、「<><><><」という動きの連続になる。しかも比較的ゆっくりとこの振幅運動を行うため、くにゃくにゃくにゃくにゃといささか気持悪い動きとなる。その上、掌の状態は力を抜いているのかやや閉じぎみであり、その脱力の掌は腕を左右に振ると同時にスナップを効かせて小刻みに前後運動している。
 描写すると斯様に複雑な動作なのだが、実際目にすると、でれれんとした趣があり、しゃきっとせんかい、しゃきっと、という憤りを私に齎すのである。中には両腕でこの動作を行う者もおり、どうみても「よいよいさん」である。
 女子の人の別れの動作は、このようにちょっと凄いことになっているのであった。
 いつの頃から、こうなってしまったのだろうか。思うに、この動作は八十九年頃から発生しているのではあるまいか。
 それ以前は、我々には手を振るという行為の手本があった。無意識のうちにその人の手の振り方を真似ていたのかもしれない。とにかくその人は我々の前に姿を表すたびに手を振っていた。いうなれば「手を振るプロ」であった。手を振る象徴だったのだ。八十九年初頭にその人が亡くなって以来、日本人は手を振るという行為の見本を失ってしまったのではないだろうか。そして、今や手の振り方に混沌が訪れているのである。
 あ、そう。


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1997/12/19
文責:keith中村
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