第42回 走者の群


 最終電車とは何だろう。決まっているではないか、一日の最後に発車する電車のことだ、と仰っしゃる前によく考えていただきたい。確かに最後の列車が二十三時台の発車ならそう言っても間違いない。しかし、深夜零時を越えて発車する電車だって最終電車という。この場合、日付はすでに翌日になっているわけだから、「一日の最後に発車する電車」と定義したのではおかしい。この定義を採用するなら、二十三時五十九分発の列車は「最終電車」であるが、零時ちょうどより後は「始発電車」と言わねばならぬはずである。しかしこの意見にも異論はあろう。たとえば零時五分発の次が早朝四時三十五分発であったとして、零時五分発を始発と呼んじゃいけない、なんとなればその次の電車まで四時間三十分も空いているわけで、これだけ間隔を置いて運行するものをひとまとめに一本目二本目とは呼べないだろう。そんな声が聞こえてきそうであるが、何を仰っしゃる兎さん、私の郷里では神戸行きのバスは一本目が朝六時台、二本目は昼十二時台であるから六時間も空いているのだ。どうだ吃驚したか。四時間半なんてまだまだ青二才である。まいったか。
 いや、何も私は、だから零時を回って最初の列車を「始発」と呼べ、ということを主張したいのではない。「最終電車とはひとまとまりの駅の業務が終了する手前の最後の列車である」という定義がおそらくは妥当なところであろうし、その定義を認めるのにやぶさかではない。しかも、どのみち、これは以下の話とはまったく関係がなかったりもするのだ。
 奇妙な勤務時間の仕事に従事しているせいで、私が南海電車の上りで難波の駅に到着するのは、ちょうど下りの最終にほど近い時間帯である。この時間には一風変わった風景が見られる。南海電車の最終に乗り遅れじと疾走する人々である。彼らは地下鉄御堂筋線から降りた途端全速力で駆け出し、地下鉄の改札を抜け、地べたに寝ているホームレスのおじさんの頭を飛び越えあるいは蹴りとばし、高島屋の前を通過し、南海への長い長い階段を一段飛ばしで掛けあがる。
 ほとんどはサラリーマンかOLである。残業で遅くなったものもいようが、しかし大半は赤ら顔である。彼らあるいは彼女らの顔が赫いのは走っているからではなく、体内に摂取したアルコールのせいである。すなわち、会社帰りに呑んでいて遅くなってしまい、終電めがけて、犬まっしぐら、という図なのである。
 私は地下鉄のフォームに向かっているものだから、彼らとは向かう方向がさかさまである。つまり、彼らが全力疾走している地下街を私はその流れに逆らって歩いているのだ。危険極まりないと思われよう。しかし、彼らも関西人である。関東の方は知らぬだろうが、関西人は雑踏の中を人にぶつからずに移動することにかけては世界的に見ても秀でた才能を有している。恰もスキーの障害物種目のように彼らはコンマ数秒の判断で前方から歩いてくる人をすり抜けて走る。たとえ酩酊状態であっても、その能力はいささかも衰えない。
 ときどき、避けきれずに激突してしまう人もいる。激突した相手に「痛いのう。われ、何さらしとるねん」などと踏まれたり蹴られたりの目に遭いながら「ひい。すみません。すみません。許してください。ひい。もう走りません」と頭を腕で防禦しながら謝りたおしているサラリーマンの言葉はたいてい大阪弁ではない。つまり、関西人の才能がないにもかかわらず見よう見まねで疾走するという愚挙に出たよそ者の悲劇である。
 中には走っている最中に気分が悪くなってしまい、柱に凭れてげぼげぼげげぼと嘔吐してしまう者もいるが、これも僅かである。
 ほとんどのサラリーマンやOLはそういったこともなく疾風のように走り去る。
 この風景を見て私が奇異に感じるのは彼らあるいは彼女らの表情である。どうしたことかいちように笑っているのである。何故だ。何故に彼らは笑うのだ。
 呑んでいて遅くなったことへの照れであろうか。ランナーズハイというやつだろうか。それとも高野山、和歌山方面にはもともと笑っているような顔の奴が多いのか。
 笑いながら走ってくる何十人もの人々を右へ左へかわしながら、私は帰路に着く。
 笑い顔で迫りくる人というのは無気味である。
 皆さんの中にもそういう方はいらっしゃるだろうけれど、時折殺人者に追いかけられる夢を見る。夢の中の殺人者というものはたいてい笑いながら追いかけてくる。これが怖いのだ。
 今まででいちばん怖かったのは小学校の時に見た、ダークダックスに追いかけられる夢である。マンガさんが笑い顔のまま、出刃庖丁を持って迫ってきた。あれは怖かった。
 それにしても何でマンガさんはマンガさんという仇名なのだろう。
 っていっても、若い人はマンガさんなんて知らないよね。


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1997/12/16
文責:keith中村
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