第37回 ふたつ返事


 名数というものがある。たとえば、七福神であるとか、四天王とかというやつである。
 三国一の花嫁という場合の三国とは日本、唐、天竺であり、六根清浄の六根とは眼、耳、鼻、舌、身、意である。
 三獣といえば、アギラ、ミクラス、ウィンダムであり、五指といえば一夫、光男、正男、晃、妙子であり、恋のダイヤルは6700だったはずだが、今の若い人には判らないかも知れぬ。
 二十一代集といえば古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集、後拾遺和歌集、金葉和歌集、詞花和歌集、千載和歌集、新古今和歌集、新勅撰和歌集、続後撰和歌集、続古今和歌集、続拾遺和歌集、新後撰和歌集、玉葉和歌集、続千載和歌集、続後拾遺和歌集、島崎和歌子写真集、風雅和歌集、新千載和歌集、新拾遺和歌集、新後拾遺和歌集、新続古今和歌集のことである。
 666といえば獣の数字であり、ダミアンの誕生日である。これも若い人には判らぬかもしらぬが、智慧あるものは解くがよい。
 さて、こんなにも物知りの私であるが、どうしても解明できぬ数字というものもある。それが「ふたつ返事」である。
 ふたつ返事で引き受ける、という言い回しがあるが、いったいこの「ふたつ返事」というのは何なのであろう。近ごろこれが気になって仕方がない。ふた言で返事をするという意味であろうが、ぜんたい「なに」と「なに」なのだろう。
「はい。かしこまりました」
「ようし。わかった」
「オッケイ。やったるで」
 ということか。なんとなくしっくりこない。そもそもいつ頃からある言葉かも知らないのだ。
 もしかしたら古く中国にあったものであるかもしれず、ならば、
「是。敢不聴命乎」
 なのかもしれないし、あるいは実は英語から来た表現で、
「イエス、サー」、もしくはフランス語の、
「ウイ、ムシュウ」である可能性もないわけではない。
 はたまた意表を突いてポポロフ語の、
「ズッペラプー、ホニホニ」
であるのかもしれない。違うとは誰にも言えぬ。
 そもそも快諾するときに、必ず返事をふたつ返すとも限らぬわけで、
「よしきた」
「合点承知の助」
「ほいさ」
 などと一言ですぐ行動に移る者もいるだろう。ご承知のように、植物さんだって、「イエース」とひとつの返事で答える。
 反面、返事が多い奴ほど実際には動かぬものであり、「えっ。はっ。そりゃ、もう。もちろん。はいはいはい。そうでございますね。了解いたしました。では、では。早速可及的迅速に、前向きに検討をば」などいう者に限ってちっとも承知していないのである。
 また、ふたつの返事で断ることもある。
「いかん。絶対に」
「嫌。死んでも」
「なんやと。しばいたろかワレ」
「駄目。生理なの」
「いやん。そこはダメ」
 まあ、最後の例などは実は快諾の言葉であったりもするのだが、承服しかねる場合にも、このようにふたつの言葉で返答することもあるだろう。
 ではなぜ承諾の場合のみを「ふたつ返事」というのか。
 思うに、これは「二」という数の安定性が原因であるのではあるまいか。我々は漠然と、偶数を安定、奇数を不安定と捉えている。そこで、「うん。わかった」というような二つの返事には安心感を覚え、それが「ふたつ返事」という言葉のもとになったのかもしれないのだ。しかも「ふたつへんじ」と平仮名で書けば六文字になるが、六は自分自身を含まぬその約数すなわち一、二、三の和がもとの六になるので、古来より完全数として特別扱いされたものでもある。
 もちろん、実際にはたとえば立体空間においての安定とはカメラの三脚などのような三点支持であるし、古来より三幅対、三つ巴、三竦みなど、三を安定したまとまりと考えることも少なくない。また、和歌、発句などの韻文も五、七という奇数を基本としているし、「白波五人男」「仮名手本忠臣蔵」というように歌舞伎や浄瑠璃の題名は絶対に偶数にならぬようにつけるものらしいので、私の仮説がいきなり覆ってしまうかのようにも見えるのであるが、五、七という数はともに「完全数」六の隣にある数で「革命数」と呼ばれ、新しいものを産み出す力を持っているとされているので問題はない。
 なんて書くと、電波系の人々はかなりこういった数字の符牒に固執しているようで、私自身がそういった既知外人種だと誤解されても困るのでやめまする。私はむしろ「六でなし」でしょうかねえ。とほほ。


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1997/12/10
文責:keith中村
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