第361回 剽窃神髄


 大瀧詠一の有名な挿話にこういうのがある。「あなたのこの曲は、これこれとそれそれの曲のこれこれとそれそれの部分にそっくりですね」と指摘された大瀧詠一が答えて曰く「あれ。たったそれだけしか気づかなかったの」というやつだ。
 この発言は大瀧詠一の抽斗の多さを感じさせるとともに、「俺は大好きな音楽を二十も三十も詰め込んだんだから、聴く側のあなたもたったそれだけじゃなくもっと気づけるくらい音楽を好きになってよ」という意図、つまり「開き直ることによる先人へのオマージュ」と解釈することもできて、非常に格好いいものだと思っており、私も目指すところはかくありたいと考えている。
 私の場合は、という書き方は、未だ何者でもない癖に偉そうなのだが、とにかく私の場合はお気づきの方も多いだろうし、自分でも時折言及しているように、筒井康隆・町田康・宮沢章夫・土屋賢二等々の方々の影響を随分受けた文章を書いている。他にも丸谷才一・野坂昭如・中島敦の文体模写で書いたこともあるし、やや混沌とした列挙になるがマルケスやら漱石やらジョイスやらサリンジャーやらコルタサルやらを意識して書いた文章もある。まあ、このあたりは「どこらへんがマルケスやねん」「どこが漱石やっちうねん」と思われるかもしれない。体調のいい時なら「こちとら、どこが漱石かわからんくらいまで咀嚼しきってから書いとるんじゃ、ゴルァ」と2ちゃんねる文体で反論もするが、そうでなければ「お前ら。私の力量不足ですみません」と謝ってしまう。もっと細かな部分まで振りかえれば私に影響を与えたものや人を、それこそ筒井康隆の「十五歳までの名詞による自叙伝」やビリー・ジョエルの「ハートにファイア」ばりに何百と並べ立てないといけなくなるので割愛するが、それにしても「ハートにファイア」。恥ずかしい邦題だな。
 音楽にせよ文学にせよ絵画にせよはたまた工業製品や建築物であっても、無から有を作り出せぬ以上、何らかの形で先人の影響を受けたり真似をしたりというのは出発点としては当然のことかもしれないわけだが、その際真似る対象への率直な尊敬があるものは「オマージュ」と呼ばれる(オマージュはそもそもフランス語で尊敬の意味だ)。また、対象へのひねくれた乃至は照れた敬愛があるものは「パロディ」と呼ばれることがある。そして敬愛や尊敬が一切感じられないものは「剽窃」の烙印を押されることになるのである。
 私の文章がオマージュと取られるか剽窃と取られるかは、読み手が判断すべきことで私自身がどうこうできるものではない。逆にもし「私が剽窃された場合」には私が主体的に対応すべきなのかもしれないが、はてそういう際にどうしたものやらが私にはよく分からないのだ。
「もし」と書いたが、実はこれまでに何度も剽窃される目にはあっているのだ。第三者がメールで私に教えてくれる場合もあれば、検索エンジンで偶然私自身が発見する場合もある。また、検索エンジンにわざと自分のサイトの一文を抛り込んで見つける場合もある。そう、私は意地が悪いのだ。
 加えて最近では文章をコピーペーストするとたちどころに私のところに通知がくる仕掛けをサイトに仕込んでいるので、盗用は瞬間にして判るようになっている。って、さすがにこれは嘘っぽいなあ。すみません。
 いちばん初めに発見したサイトでは私の文章を何十も「自分で書いたかのように」並べてあったのだが、ここを見たときに私は混乱した。何となれば、それらの文章の多くが、「私が書くよりも以前の日付で発表されていた」のである。
「あれ。もしかして盗用したのは俺なの。まさか夢遊病かなんかで無意識のうちに。俺、だれ。ここ、どこ。この指、パパ」
 瞬間そのように想像して慄然としたのだが、よく考えてみればページ上に表記する日付なんて適当に付け直せばいいだけなので、そうしてあったのだろう。このような経験は初めてだったので、恐る恐る当該サイトの持ち主に事実確認のメールを送ってみた。
「そちらの文章はもしや私のものではありませんでしょうか」
 結構びくびくしながら送ったのである。ものすごく悪質な奴で「何だと、ゴルァ。俺のほうが先に書いたんだ。この日付が動かぬ証拠だ。お前こそ盗作野郎だ」などと開き直られたらどうしよう。ひい。この「びくびく感」はコンピュータのサポートに電話を掛けるときの感覚にかなり近い。「そんな操作するからおかしくなったんでしょう」などと叱られたらどうしよう、と想像してしまうのだ。実際そんなひどい対応をとるサポートはないだろうが、小心者は怯えてしまうのであった。
 ところが拍子抜けなことに返ってきたメールは平謝りであり、その日のうちにくだんのサイトは閉鎖されてしまった。こういう極端な対応もなんだか逆に、私が閉鎖に追いやったようで(まあ、そうなのだが)心苦しいものがある。それ以来、私の文章を剽窃しているサイトを見つけても次のように対応することに決めた。
「とりあえず暖かく見守る」
「いつサイトがなくなっても大丈夫なように定期的にすべてダウンロードする」
 重ねて書くが、私は意地が悪いのである。あなたのとこも、あなたんちも、それからすでに閉鎖しているあなたのとこもちゃんと押さえているからね。てへっ。
 ともかく、そうやって見守っていると結構面白い発見があるものである。
 なかなか安直に丸ごとコピーしている人が多いようで、出身が東京だとプロファイルに書いているのに私が書いた大阪弁の科白をそのまま使っていたりする。
 囲碁が趣味という女子の人のサイトに使われたこともある。私の文章はどう転んでも女子の人のものには見えないと思うのだが、いいのかな。中に、本因坊跡目秀策というのはいったい何だと書いている回が使われていたのだが、囲碁が趣味ならそれは知っていないとおかしいと思われやしないかと、他人ごとながら心配してしまう。
「『新屋なんとか』という人は、思い出せそうだがやっぱりよく判らない」なんていう箇所をそのまま使っている人もいる。いまや「雑文館」の新屋さんなんて知らないだろうに、これはこれでいいのだろうか。ところで新屋さんお元気ですか。
 工夫しているサイトでは、丸ごとコピーで不整合を生じるところを自分の立場に合わせて書き直してある。日記サイトでは、さすがに私の文章は日記にはならぬと思ったか「久しぶりに日記を書いてみようと思う。……はて、何を書けばよいのか、てんで見当もつかぬ」などと前置きをしてから強引につなげていたりするのであった。
 梅田から「南港に来てみました。えへへ」というのを札幌駅から「石狩に来てみました。えへへ」と書き直しているのは、北海道の人なのだろう。スケールにおいて、私のほうが負けているじゃないか。何か悔しい。
 笑ったのはユニバーサル・スタジオ・ジャパンのことを扱った回だ。こればかりは地域を変えては成立しない。と思ったら「以下、大阪に住む、友達からの情報」として、まるまる引用してある。おいおい、いつからあんた私の友達になったんだ。
 これらのサイトに無断転用してある文章を見ると、どのような話が好まれるのかが判って、これはこれで参考になる。自分では面白いと思っている文章を誰も盗まなかったり、その逆があったり。しくしく。
 剽窃というのはちょっとどうかと思うが、しかしまあ、考えてみればこのような行為に及んでいる人はきっと私のサイトを面白いと思っている人だろうから、その意味ではとてもありがたいことなのかもしれない。なむー。それにしても、と私は思うのだ。物を書こうと考える人なら、一介の素人の文章を盗んでちゃいかんだろうに。もっと志を高く持つべきではないのかな。
 それから、その中でも特に一部の人に言いたい。
 おどれら、呆け茄子。オチの部分の文字をでかくしたり赤くしたり、勝手に改竄するんやないっ。お前ら、フォントいじりでしか人をよう笑わせんのかっちうねん。真っ向勝負したらんかいっ。
 以上、でんこちゃんからのお願いです。えへっ。


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2002/02/20
文責:keith中村
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