第347回 違いが判らぬ男


 注意力が散漫であるという自覚もないのだが、生来大雑把な性格をしているのか、「違い」というものに疎いので、たとえば人の顔を見分けるのもあんまり得意ではない。松たか子と松嶋奈々子という二人の女優だかアイドルだかがいるけれど、私にはこの二人が同じ顔に見え、かつよりによって名前までよく似ているので、どっちがどっちなんだかさっぱり判らない。日本人の顔ですらそういう有りさま、ましてや外人においてをや、以前「L.A.コンフィデンシャル」という映画を観たときのこと、中盤くらいで主役らしき俳優が撃ち殺されてしまい、しかしどうしたことか次の場面ではその俳優がぴんぴんして活躍している、はて回想場面でもないのにどうしたことか、ゾンビものでもあるまいに、と不思議に思っていたのだが、どうやらこの映画にはケビン・スペイシーとラッセル・クロウというそっくりな役者が出演しており、しかし私は区別がつかぬゆえ、ずっと一人の役者だと思っていたのである。
 一事が万事そういう調子なので、食べ物についてもやはり細かいことは判らぬし、細かいことにはこだわらぬ。私は美食の流行とやらが大嫌いで、やれどこそこのレストランがおいしいだの、どこそこの寿司が絶品だのという話を聞くたびに、けっ、この大たわけが、飯なんぞというものは腹さえ膨れればそれでいいのだ、と内心毒づいていた。
 しかし、自分の気持ちの中を深く考察してみれば、実はこれ、羨望や劣等感から発せられた感情なのかもしれぬ、というのも私には、これこれが美味い、と人が喧伝するものが本当に美味いのかどうか判断する舌がないのである。かといって不味いと感ずるわけではない。逆だ。私は何を食べても、それなりに楽しめるのである。人が美味いと思うものをそこまで美味いとは思わぬかわりに、人が不味いと貶すものもそこまで不味いとは思わず、基本的には何でも「ああ、おいしいおいしい」と喰えるのだ。いわば、味の許容量、味覚のダイナミック・レンジが広いのである。
 などと書くと余人は、何でもぱくぱく美味しく食べられる、好き嫌いのないよい子、すくすく育つ元気な子、いいことではないか、と思われるかもしれない。だが、これはそのように手放しに喜べることでもないのだ。
 というのも複数名で外食をしたとしよう。たまたま入った店がひどく不味い料理を出したとする。このような際、私以外の者は料理に対して口ぐちに不平やなじり、謗りを発するだろう。だが、私だけはこう言うのだ。そうかなあ、結構美味かったよ。本当にそう思ったから、心の底からそう思ったからそう発言するのだが、どういうことか、この瞬間から誹謗讒謗の対象は料理から私へと転ずるのだ。
「あんな料理のどこが美味いのだ」「お前には審美眼いや審美舌はないのか」「よほど賤しい口をしているのだな」「これまでどんなものを喰うてきたのだ」「阿呆じゃないのか」「そんなことだから駄目なんだ」「袖にカレーこびりつかせてるから駄目なんだ」「襟元にカレーこびりつかせてるから駄目なんだ」「髪の毛にもカレーがついているじゃないか」「お前なんか一生カレーばかり喰ってろ」「眼鏡の蔓がいがんでいる癖に」「ギターが下手な癖に」「もてない癖に」「駄目人間の癖に」「この駄目人間が」「この駄目人間が」
 なんで美味しかったと一言いうだけでここまで悪しざまに言われなければならぬのか。私はよよよと泣き崩れ、美味い不味いの判る人間に羨望や劣等感を感じながら、このような舌とこのような舌に生んだ両親を恨むのであった。
 このようだから私はこれまで美食の流行、グルメ・ブームを自分とは一生縁のないものとして憧れと憎悪の交じった感情でもって、あんまり係り合いにならぬようにしていた。
 先日のことである。休みを利用して家の者の実家を訪ねた折、何でもしゃぶしゃぶを馳走してくれるということで、私は家の者と材料を買い出しに出掛けた。肉屋に到着すると家の者はグラム三百円の肉を指さし、店員にこれを一キログラム所望する旨を伝えた。一キログラムというのは量だけは無闇と喰らう私のためである。
 さて、肉を包み終えた店員が口を開くと私は吃驚してのけぞることとなった。なんとなれば店員はこう言ったのである。
「三万円いただきます」
 私は、きっとこの店員は計算間違いをしているのに違いない、三百掛ける十は三千円この単純な計算すらこの店員はできぬのだ、きっと三以上はすべて「たくさん」と表すような原始的な部族の出身に違いない、と考えたが、家の者は平然と三万円を差し出す。その時ふと陳列棚に並ぶ肉のうち、家の者が示したものが眼に入ったのだが、なんということだ、改めて見るとそれはグラム三百円にや非ず、グラム三千円の肉なのであった。
「グラム三千円の肉」
 ものすごいことになっている。
 私は慌ててしかし小声で家の者に「ちちちちょっと待て。なんだその馬鹿高い肉は」。
 だが、家の者は私の狼狽とは裏はらの落ち着き払った口ぶりで、「ええ。実家の財布なので大丈夫ですの」。
 親の金だから大丈夫とか、そういう問題じゃなかろうに、などとぶつぶつ言いながら気がつけば私は「いやあお義父さん」とか何とか言いながら家の者の実家の団欒に交じり、しゃぶしゃぶを喰ろうているのであった。
 みなさんはグラム三千円の肉を召し上がったことがおありだろうか。自慢じゃないが私はある。自慢だが私はある。貧乏な方のために、私がその三千円の肉の味を形容してみよう。こうだ。
「とてもおいしい」
 もう、何しろそうとしか言いようがないのだ。よく、テレビの食べ歩き番組で芸能人が物を喰っては「おいしい」などと貧困な語彙で持って形容しており、私はそういうのを見るたびに、馬鹿どもが、と毒づいていたのだが、いざ我が身に降りかかってみれば、やっぱりそういう他に形容の方法がないのだ。
「とってもおいしい」
 私は考えるのだが、これは明らかにグラム百円あまりで投げ売りされている肉とは異なる。これを同じ「肉」という語で表していてもよいものだろうか。いや、この肉は「肉」以上だ。だから譬えばこういう呼称でもって呼んだほうがいいのではあるまいか。
「ニックー」
 あるいは、こうだ。
「未来の肉」
 私の表現は何かが間違っているかもしれない。しかし三千円の肉には私をそのようにおかしくしてしまう力があるのだ。
「飛騨牛サップライズ」
 いきなり何を叫んでいるのかと思われた方もいるだろうが、三千円の肉には人を叫ばせる力があるのだ。
 違いの判らぬ私ではあったが、さすがにここまで滅茶苦茶に高いと明白に違いが感じ取れるのである。
 あまりのおいしさに、私はそこが家の者の実家であることも忘れ、ひとりで大半を貪り喰うてしまったのであった。
 今にしてようやく冷静になった私は後悔している。少しくらいは遠慮をすればよかった。恥ずべき行為であった。
 きっと、家の者の実家では、私のことを「しゃぶしゃぶ」と呼ぶのに決定だ。


新着順一覧 − 日付順一覧 − 前を読む − 次を読む − トップページ


2001/02/12
文責:keith中村
webmaster@sorekika.com