第346回 婆セルミ


 たとえば魚介類には天然ものと養殖ものがあったりするが、このうち珍重されるのは天然もののほうで、養殖ものの値打ちはそれよりは随分と下がる。人間を、というのが言い過ぎならば関西人を、と限定してもよいのだが、ボケとツッコミに二分して論じることができるのは有名な話であるけれど、その「ボケ」にもやはり天然ものと養殖ものがあって、これまた天然ものは養殖ものに勝る。  
 会話している際にボケるという行為は、関西人のはしくれたる私も時おり、いやしばしば、いやいや結構おこなうのだが、どうも私のボケは理が勝ちすぎていたり、狙いすぎてけれんばかりが目立ったりしていて、よろしくない。
 たとえばテレビでニュース番組を視ているとき。鈍器で通行人を襲った強盗が逮捕されたという報道で犯人の顔写真が映る。その顔が何だかとってもお猿に似ていたような場合。私ならこのように呟くだろう。
「なるほど。鈍器だけにコングか」
 養殖ものの私に言えるのはせいぜいそれくらいが限界なのである。あ、判らない人は初代ファミコン世代のお兄さんお姉さんに質問してね。
 仮に私の体調が万全で便通も滞りなくカレーもおかわりして脳内にはアルファ波出まくり、そういう最上のコンディションなら、或いはやにわに立ち上って踊り出しながら、こう言えるかもしれない。
「君は鈍器・モンキー・ベイベー」
 これは「鈍器だけにコング」よりはよほどいい発言かもしれないが、しかし両者に共通する問題は、いかにして鈍器とお猿を結び付けるかという点に腐心するあまり、理屈ばかりが立ちすぎて、いわゆるところの駄洒落の域を抜けていないことではなかろうか。 
 なかろうか、などと訊かれても困ってしまうだろうが、困る人は置き去りにして話をそれに対する天然ものの人へと進める。あ、そうそう。判らない人はキャロル世代のお兄さんお姉さんに質問してね。
 さて、同じ報道を天然ものの人が見ていたなら、その人はいったいどう発言するだろう。一例はこうだ。
「うわっ。なんやこの人。福耳い。耳ながっ」
 言われて改めて犯人の顔写真を見やると、確かに福耳ではあるのだった。そりゃもうアスパラガスの一本くらいはくるりと巻けるくらいの耳朶ではある。しかし、だ。今はそういうことではないだろう、お猿に似ていることのほうが眼を惹くだろうに、何が嬉しうて「耳ながっ」だ。
 このように、天然ものの人は養殖ものには太刀打ちできぬ思考回路を有しており、それは天衣無縫九連宝塔九面待ちイエーイという境地に達しているのであった。
 だが、いかな天然ものの人とは言え、四六時中訳の判らぬぼけた発言を重ねているわけではない。まっとうな社会生活を営む上で必要最低限度の「常識」は持ち合わせているはずで、だから道ですれ違った人がよし福耳だったとしても、「うわっ。この人、耳ながっ」とは叫ばないだろう。
 その意味で、もっと凄いのは「ボケ」ではなくて「惚け」の人である。
 私の祖母は、かつては祖父を箒を構えて追い回すほど気丈でしっかりした人であったのだが、近年めっきりと老け込み、惚けが進行して老人介護施設いわゆるところの養老院に入っている。
 先日、祖母をこの施設に見舞うた折り、ここには私の実家の近所の爺さんも入っており、祖母はその老人と並んでロビーにぼんやり座っていたのだが、私はその老人とも挨拶を交わし、短い世間話をした。この爺さんも結構惚けが進んでいると聞いていたが、話してみると祖母よりは余程しっかりしている。感心していると、老人はふと思い出したように言った。
「ところで。あんたのお婆さんは最近元気かね」
 私は、「なんでやねん」と危うく突っ込みそうになったが、こんな老人の胸をどんと叩いて突っ込むと一発で死ぬるかもしれないと考え、すんでのところで思いとどまった。
 このやりとりを隣でぼけーっと聞いていた私の祖母(惚けているだけにぼけーっと聞いていたのだが)は、遠くの方を指さして不思議そうに呟いた。
「あれ。あの人、こないだ死にはったのに、何でまだ居るんやろう」
 見ると、そちらには一人の小さな老婆がいた。椅子に座ったままこっくり舟を漕いでいる。
 おかしなことを言っているなあ、と思っていると、祖母は納得した顔になって言った。
「あっ、そうか。あの人、自分が死んでることに気がついてはれへんのやね」
 ものすごいことになっています。
 うちの祖母はまるでドナルド・バーセルミです。
 婆さんだけに、婆セルミ。いや、だから理に落ちすぎだってば。
 つくづく天然ものには勝てない。


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2001/01/30
文責:keith中村
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