第344回 貼り紙二枚


 最寄りの駅前に小さな薬局があって、入り口のガラス戸にやや大きめで橙色の貼り紙が二枚ある。これが気になって仕方がない。
 一枚にはこう書いてある。
「お腹がひっこむお茶」
 薬局の前を通る度に考えるのだが、あれはいったい何だろう。
「お腹がひっこむお茶」
 お茶なのである。飲むのである。するとお腹がひっこむのである。きっと。
 なんだか革命的にすごいものの気がする。だが、なるほどそういうものもあるんだろうなあ、と当たり前の気もする。このうち、私が後者の感想を抱く理由はそれがお茶であるということだ。もしこれが、次のようだったらどうだろう。
「お腹がひっこむステーキ」
「お腹がひっこむパッフェー」
 もちろん薬局がそのような物品を扱ってはいないだろう。あくまで「もし」の話である。しかし、だとしてもこれはあからさまに怪しい。ステーキにそんな力があるはずがないではないか。瞭然に胡散臭い。パッフェーなどというあの甘い甘いやつにそんな効能があるわけがないじゃないか。
 あるいは、こんなものだったらどうだろう。
「お腹がひっこむペンダント」
「お腹がひっこむ壷」
 これでは駄目だ。どう考えても詐欺か何かに決まっている。
 ではこれならどうだ。
「お腹がひっこむ板」
「お腹がひっこむ猿」
 たしかに衝撃的な広告ではあるが、あるのは衝撃だけで、いったい何を言いたいのかさっぱり判らないことになってしまう。
 これらの考察から導かれる結論は、こうだ。「お茶には不思議な力がありそう」
 我々は心のどこかで常にそういう意識を持っている。お茶と聞くと我々は、カテキン、などと思うのだ。あるいは、フラボノイド、と考えるのだ。または、中国四千年あるよ、とか想像するのだ。そして、この貼り紙はそこに訴えかける。さらに考えれば「お腹がひっこむ」という部分にも捨てがたい味わいがある。「痩せるお茶」ではないのだ。お腹がひっこむ、である。どうだ、この潔いまでの具体的即物的な訴求力は。お茶なんだからそういう効果があるのかもしれない、なにしろカテキンで四千年でことによれば福建省だったりもするんだから。そう、お茶はどんなありえないことでも実現できそうな可能性を秘めているのだ。だから、我々は次のような貼り紙を眼にしても、うっかりすると信じかねない。
「うんこがもりもり出るお茶」
「目ん玉がビローンと飛び出るお茶」
 まあ、うんこはともかく目ん玉がビローンと飛び出すことの是非にはいろいろ意見があろう。だがそれでも油断していると「そうだな。たまにはお茶でも飲んで目ん玉ビローンになってみようかな」などとついつい考えてしまいそうで危険だ。
 だが、お茶よりも私が感銘を受けるのはこの薬局のもう一枚の貼り紙だ。でかでかとこう書いてある。
「足のつる人」
 初めて見たときにはいったい何だと思った。よく見ると、脇に小さな字が添えてあり、「足のつる人ご相談ください」と読める。この貼り紙も、見るたびにあれこれ考えさせられる。いったいどうやって相談するのだろうか。
「ごめんください」「はい」「ええと、そのあれ」「コンドームですか」「違います。その。あれ。表の」「ああ、お腹がひっこむお茶ですね」「じゃなくって、その足が攣るんです」「あ、はいはい。で、どんなふうに攣りますか」「どんなって、ええと」「くんっ、とか」「うーん、違うなあ」「ぴきーん、と」「あ、近づいた」「きゅきき」「んー。て言うかあ、きゅききーん、かな」「なるほど、きゅききーんですね」「そうそう。きゅききーん」
 お前ら、それが大人のする会話か。
 まあ、私が勝手に想像して勝手に怒っているだけなのだけれど。
 それにしても、こういう広告なり貼り紙は薬局に特有のもので、他のものを鬻ぐ業者にはあまり見られない性質のものである。
 たとえば、仏具店にこんな貼り紙があるだろうか。
「死んだ人ご相談ください」
 あるいは、レストランの入り口にこう貼ってあったらどうだろう。
「腹ぺこの人お入りください」
 出た。腹ぺこ。
 私はこの言葉が許せない。腹ぺこ。
 たとえば、あなたが落ち込んでいるとしよう。俯いているあなたを心配して知人が言う。
「悩みごとでもあるの」
 これはいいだろう。あるいは、「気分が悪いの」でも許そう。だが、これはどうだ。知人はあなたの顔を覗き込んで言うのだ。
「腹ぺこ?」
 これはまずい。
「お腹ぺこぺこ?」というのもかなりいけないが、「腹ぺこ?」はもっと駄目だ。何がいけないといってやはり「ぺ」のあたりだろう。全身の力が一気に抜けてしまいそうだ。もしこれが「ぺ」ではなく「べ」だったらどうだろう。
「腹べこ?」
 どことなく山本周五郎の「青べか物語」に似ていなくもないが、似ているからどうだというのだ。
 だが不思議なことに「腹ぺこ」はかなりまずいが、「ペコちゃん」はそんなにまずいとも思わない。紅茶の「オレンジ・ペコ」もまったく大丈夫だ。だが、腹ぺこだけはいかん。いかんのじゃ。
 人から指さされながら、こう訊かれたらどうだろう。
「腹ぺこの人?」
 そんな言われ方だけは絶対にしたくない。これに比べたら「足のつる人」の方が百億万倍ましだ。
 そんなこと言われた日にゃあ、目ん玉ビローンだ。


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2001/01/13
文責:keith中村
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