第333回 してみるのだ


 いつ頃からそういう具合になっていたのか、思い返してもよく判らないのだけれど、その言い回しは気がつけば当たり前のように使われているのだった。
 私がこの言い回しを改めて意識したのは、先日通信販売のカタログを眺めていたときである。
 青い熊のぬいぐるみが掲載されており、「フリースベア(青)(大)」とその商品名が記載されている。問題はその下にあった小さな文字である。
「※手触りのよいフリースで作ってみました」
 フリースというのは生地の種類で、私はそれを調べるまで知らなかったのだが、そんなことはどうでもよい。論点はその後ろだ。
「作ってみました」
 これは何だろう。
 これは、料理などでも比較的よく見掛ける言い回しである。
「トッピングにチョコチップをあしらってみました」
 辞書をひくと、この「みる」は「ためしにする」「試みる」という意味らしい。ということは、この言い回しから作り手の姿勢が想像される。彼らが確固たる意志を持っていたわけではないらしいことが推測できるのだ。
「いや、なんか、やってみたらこうなった」
 そういう軽い意識でもって、品物を作っていたのである。
 何何してみる、という表現を用いるのは結果が予測できない場合である。あるいは、結果に自信がない場合である。
「なんだろう、このボタンは。押してみよう。ぽちっとな」
「なんだ、このバルブは。捻ってみようっと。きゅきゅっとな」
 これらの発言には結果に対する責任が感じ取れないではないか。
 ある有名な漫画映画の主人公が次のような科白を言う。
「アムロ、行きます」
 これがもし、
「アムロ、行ってみます」
 だったらどうだ。こんな奴に連邦の未来を委ねるわけにはいかない。
 何何してみる、から垣間見えるのは甘えた素人の思想である。厳しいプロフェショナルの精神ではない。最近の言葉でいうと「結果オーライ」というやつで、「よく判らないけど、なんか、いい感じだったから採用しました」という気持ちなのである。
 私がこの言い回しにここまで意識的になったのは初めてだった。これまでは、この表現を眼にしても、「ははあ、なるほど。そうやってみたのだな」と深い考えもなく納得してしまっていたのだ。だが、このような甘えた言い回しが許されていいのだろうか。否。よくない。断じていけないのである。考えていただきたい。このような言い回しが容認されるのであれば、社会は正常に機能しなくなる。
 タクシーを拾ったとしよう。
「運転手さん、梅田まで」
 運転手は、はいはい、とか何とか言って発車する。しばらくして見回すと車は何やら違う道を走っている。
「運転手さん、梅田だよ、梅田」
「はいはい」
 タクシーはしばらくして停まる。
「運転手さん、ここ、どこ」
「南港に来てみました。えへへ」
 えへへ、ではない。こういう手合いは南港に沈めて逝かせてやるしかないだろう。
 会社に遅刻した人間は次のように言えばよいことになる。
「ちょっと寝過ごしてみました」
 何なら欠勤してもよい。
「ちょっとお腹が痛くなってみました」
 次のような発言もいささか信頼に欠ける。
「この列車は東京に向けて出発してみます」
「この番組はご覧のスポンサーの提供でお送りしてみました」
「ただいまから定例国会を開催してみます」
 こういう言葉がある。
「桜の木を切ったのは私です」
 これはもちろんワシントンの幼少時代の言葉とされるものであるが、これが次のようだったらどうだろう。
「桜の木を切ってみたのは私です」
 ちっとも偉くないのであった。
「ルビコン河を渡ってみよう」
「和をもって貴しとなしてみよう」
「鳴かぬなら殺してみようほととぎす」
「ジョセフィーヌ今夜は止してみよう」
 どれもこれもかなり駄目な言葉になってしまう。
 最後のは元から駄目か。


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2000/09/06
文責:keith中村
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