第332回 熊と踊れ


 先日、偶然ひねったチャンネルで、十代の少年少女たちが十数名集まって議論をする番組をやっていた。進学校に通っている子供がいれば、中退してぶらぶらしている子供、それに鳶職見習いをやっている子供もいる、そういった多種多様な立場の少年少女たちがひとつの主題に沿って討論をする、いわば異種間格闘技バトルロイヤル満漢全席百家争鳴の番組である。
 中に十六、七歳の女子の人がおり、どうしたことかこの娘は既に十六、七歳の齢に達していながら小さな熊の縫いぐるみを常に膝の上に抱っこしているという奇妙奇天烈な性癖を有していて、これがかなり危ない人のような雰囲気を醸成しており、その熊はちょっとどうかと思うぞなどと考えながら視ていたのだが、この女子の人は自分が幼い頃からバレエを習い続けて来しが、しかしながら最近挫折のような限界のようなものを感じて当惑しているという主旨の話を熊を抱っこしたまま褸々語ったのち、自分の話に陶酔したようなうるうるの眼でやや声高になってこう主張した。
「でも私、やっぱり踊りながら食べてゆきたいんです」
 これはちょっとものすごい発言である。と直観した。
 しばらく考えて、いやいやそうじゃないこれは踊りをたつきにしたいという旨だ、とようやくこの発言の意図が理解できたのだが、ともかく咄嗟に私の脳裡に喚起された映像は、この女子の人がチュチュを着て皿と箸を持ち、「ラララー、レッツダンシング! バクバクバク、うまいっす」と言いつつ、白魚だか何だかを踊りながらちゅるちゅると食べているという内容のものであった。両手が塞がっているため、熊の縫いぐるみは背中におぶっている。もちろん股間には白鳥の頭があって。くるくるー、と回りながら。
 私の知人で、つい最近まで「踊り喰い」という言葉の意味を、ほんとうに踊りながら食事をする意味だと誤解していた者がいて、このことが私の頭にあったためこのような想像をしてしまったのである。よく考えると「レッツダンシング」というのは明らかな文法的誤りを含んでいるのだが、これは私の責任ではなく、このバレリーナの人か、私の知人か、どちらかが悪いのである。
 書いているうちに思い出したが、ヒッチコックの「裏窓」に踊り子の娘が登場する。彼女はひとりきりの部屋の中であっても常に踊っているという設定である。踊りながら食事の準備をし、そして踊りながらトーストを噛るのである。やはり彼女も踊りながら食べることを志した人であった。いずれにせよ、「踊りながら食べてゆきたい」はちょっと困惑してしまう表現である。
 短距離走者が「走りながら食べてゆきたい」と発言すると、これはかなりむつかしそうだなと想像してしまうし、「歌を唄いながら食べてゆきたい」というと、ええい行儀が悪い食べるか歌うかどっちかひとつにせい、と怒鳴りつけたくなってしまう。
 言葉で人に何かを伝えるのはほんとうに難しいもので、譬えばこの女子の人が「踊りで食べてゆきたい」と発言していれば、私だってかように無駄な映像を喚起されず、即座に正しい意味を理解できたはずであるけれど、では「で」という手段を表す助詞が万能であるかといえば、しかしまた別の人が今度はギタリストを目指していたとして「俺、ギターで喰っていきたいっす」と発言すると、私はまたしても「ラララー、ロケンロール。ていうか、バクバク、うまいっすねー」とギターのマシンヘッドと呼ばれる糸巻きのついた先端部分で器用にご飯を掬って食べるという面妖な場面を想像せざるを得ない。
 ともあれ、「ながら」にしても「で」にしても、こういう発言をする者は、趣味と職業を混同している場合が多い。どんなことでも職業として続けてゆくためには相応の覚悟とプロフェショナルとしての自覚が必要であるが、この手合いにはその意識が欠如しており、そこにあるのは漠たる憧れのみである。
 本当のプロフェショナルは、仕事と私生活を完全に切り離して考えることができる。踊りながら食べたりはしないのだ。踊るなら踊る。食べるなら食べる。人生、踊る時があって、食べる時がある。この切り換えが重要だ。踊れ。舞え。それが済んだら、次は喰え。そして、その熊の縫いぐるみはそろそろ卒業した方がいいぞ。


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2000/08/29
文責:keith中村
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