第324回 大きな文字


 亡くなった小渕前首相には謹んで哀悼の意を表明したいと思う。
 考えれば我々が彼をはじめて意識したのは平成最初の日であった。もちろんみなさんも記憶なさっていようが、当時官房長官であった小渕さんは昭和の次の新しい年号を発表するべく報道陣の前にいた。彼は半紙に墨痕鮮やかに書かれた「平成」の文字を右に大きく掲げた。
 この小渕官房長官を見て、我々はこう思ったものだ。
「何だか馬鹿みたいだ」
 画数が少ない、まさに平易な「平成」の揮毫と相まって、その姿は本当に馬鹿のように見えた。
 断っておくが、私は何も故人を嗤おうとしているわけではない。
 私はただこう言いたいだけなのだ。
「大きな文字を掲げている人は結構馬鹿に見える」
 桃太郎を思い出していただきたい。昔話の挿絵に出てくる彼は「日本一」と書かれた幟をしょっている。はじめて桃太郎の話に触れた子供の頃はそんなこと考えなかったが、改めて思い返してみるとこれはちょっとどうかしている。もちろん「世界一」や、ましてや「宇宙一」という幟よりはずっとまともであるかもしれないが、しかしそれでも尋常な神経ではそんな恥ずかしい幟を持てるわけがない。あなた持てますか。
 では、これが「町内一」という具合にもっと控え目だったら良かったかというと、そういうものでもなく、あるいは「日本橋一」だったとしたら、まるで交差点の名称である。
 あまつさえ桃太郎は犬や猿や雉を家来に連れているのだ。なんてこった。
 だから、我々は思う。
「桃太郎は小渕と並び馬鹿っぽい」
 さて、大きな文字を掲げている者は他にもいる。
 時おりテレビのニュースで見掛けるあれだ。
「勝訴」
 そういう文言を大きく書いた紙をかざしながら裁判所の階段を嬉しそうに駈けおりてくるあれだ。
 場合によっては、「敗訴」ということもあろうが、どちらがより馬鹿に見えるかというとやはり「勝訴」だ。なんとなれば、敗訴の際、くだんの人はどうしてもしょんぼりしている。決して走ったりせず、とぼとぼと歩くのだ。だが、勝訴の奴めは違うぞ。にこにこしているのだ。ことによると感涙にむせんでいる場合もある。
 大きな文字を掲げているだけでも結構かなりなものなのに、かてて加えて走るのだ。泣きながら。嬉しそうに。
 かなりのマルチタスクだ。左手で円を描きながら右手で三角形を描くより難しいぞ。なかなかできるものじゃない。だが、我々はそれでも思ってしまうのだ。
「馬鹿っぽくて、いただけない」
 あれはもうちょっとどうにかならないだろうか。他の方法はないものか。
 たとえば、小学生が体育の時間に被る赤白帽があるが、あれなんかどうだろう。勝訴なら赤い方を見えるように被り、敗訴なら白い方とか。いい大人が赤白帽を被るのはこれはこれでどうだろうと思う人もいるだろうけれど、あの大きな文字よりは余程いいだろう。
 しかし、これはこれで問題がある。
「勝訴のときに白にするほうがよいのではないか」
 そういう意見が呈示されるのであった。
「相撲で勝つことを白星というではないか」
 これがこの意見の根拠だ。
 さらには、
「源氏の白旗平家の赤旗。合戦では源氏が勝ったのだから、その白色のほうが勝訴に向いている」
 と援軍まで出てくる始末。「赤=勝訴」組と意見が真っ向から対立するのであった。これではいかん。
 では、こういうのはどうだ。
「勝訴なら頭の上に達磨を載せる。敗訴なら禿のかつらを被る」
 これなら視覚的にもかなり効果がある。しかし、裁判のたびに達磨と禿かつらを準備しなければならないというのが難点か。
 さて、私はあの走り来る「勝訴」をテレビ以外で見たことがないのだが、実際あの場に居合わせたならいったいどんな気分なんだろう。距離を置いて見ているから馬鹿のようだ、などと嘲笑していられるが、もし目前で見たらどうらどう。「勝訴」が走ってくるのだ。走り寄るのだ。かなり恐いような気がする。
 想像してもらいたい。あなたが街を歩いていると前からやってくるのだ。模造紙に書いた大きな文字をかざした男が。
「勝訴」
 そんなふうに書かれた文字が迫り来るのだ。しかも男は笑っている。
 これが、
「勝負」
 だったら、もっと恐いだろう。
 最初のほうで、「平成」という文字は画数が少ないから尚さら馬鹿に見えると書いたが、これも間違っていたかもしれない。画数が少なくてもやはり恐ろしそうだ。
「へこへこ」
 四文字あわせても筆を六回運べば書ける。しかも平仮名だ。こんな文字でもやっぱり恐ろしいだろう。
 では、
「私はやさしい」
 と書いて走ってくる奴なら平気かというと決してそういうものでもない。
「地球にやさしい」
 駄目だ駄目だ。そんな奴はますます信用ならん。
 しかし、何が恐いといって、この文字を掲げて走る奴だろう。
「初心者」
 何なんだ。何の初心者なんだ。走ることか。大きな文字を持つことか。謎は深まるばかりである。
 しかも、つむじのように走り去った彼の背中にはわかばマークが貼ってあるのであった。
 大きな文字だけは掲げたくないものである。


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2000/05/26
文責:keith中村
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