第318回 アルジェの戦い


 対義語という概念があって、たとえば高いと低い、男と女、ボケとツッコミ、アントニムとシノニム、アントニオとクレオパトラ、サムソンと暑そう、トリスタンと居とるで、ジャズとズージャ、竹薮焼けたと竹薮焼けたなどを言うのだが、どうにも納得がいかないものがある。
「あるなし」がそれだ。
 存在と非存在を表す「あるなし」だが、そもそも反対の意味を表すくせに片方は動詞で片方は形容詞と調和が取れていないこと甚しい。
 それでも常体で使う分には、
「あの犬には眉毛がある」
「この犬には眉毛がない」
 と違和感なく使い分けることができるが、敬体になるといけない。
「あの犬には眉毛があります」
「この犬には眉毛がないです」
 ないです。なんだそれは。そんな言い方はないです。
 この言い回しの違和感は「ない」が終止形であることが原因である。終止形なのに後ろに「です」という助動詞がつく。これがどうにも舌足らずに響いてしまうのだ。
 それを回避しようと思えば、
「この犬には眉毛がありません」
 と、「ある」の否定形に逃げるか、
「この犬には眉毛がのうございます」
 と馬鹿叮嚀な言い回しにするかのいずれかになってしまう。
 まあ、「ありません」が無難なのだろうが、私はどうも人の言葉に鸚鵡返しに答えてしまう癖があるので、
「あの犬、眉毛あったっけ」と訊かれれば、「いえ、ありません」と返せるのだが、「あの犬、眉毛ないの」と訊かれると「はい、ないです」とうっかりやってしまい、ちょっと後悔することになる。
 しかし、「ありません」と言い換えられる独立した形容詞の「ない」なら言い換えれば済む話なので、まだましだ。
 問題は「とんでもない」など形容詞の一部に「ない」が含まれている場合だ。
「先日はどうもお世話になりまして」
「いやいや、とんでもない」
 目下の者への受けこたえならこれで何ら問題ない。しかし、目上の人間に対して「とんでもない」とやるのはちょっと無礼だと思われてしまいかねない。そもそも現代日本語では形容詞を叮嚀に終止させる日常的な言い回しがないので、敬体であっても「とんでもない」とするしかなく、しかし理屈はそうであってもやはりそれは憚られる。「とんでもない」はもともと「途でもない」と三語の合成からできているものだから、分離させて考えると、
「とんでもありません」
「とんでもございません」
 などでもよいように思うし、実際そのように話す人も多いけれど、それでも現代語として「とんでもない」がひとつの単語であるのは間違いないから、これは文法的におかしな言い回しである。「とんでもありません」「とんでもございません」はそれなりに人口に膾炙してしまっているから、それほど違和感を感じずにすむけれど、同じような成り立ちの「はかない」は、
「はかありません」
「はかございません」
 とはできないわけだから、やはりこの形が間違っているのは確かだ。
 と言っても、「とんでもないです」というのも誤りだし、唯一正しい言い回しといえる「とんでものうございます」は叮嚀すぎて相手との距離によっては厭味ですらある。
 そこで、私はこういう場合、つい、
「いえいえ。とんでもないっす」
 と答えてしまう。最後の「す」は「su」よりは子音のみの「s」に近い発音にする。「とんでもないです」を崩した形で誤用は誤用だが終止形に「です」がつく不自然さを少しでも緩和しようとしてこうなってしまうのだ。あれこれ拘泥するうちに、結局もっとも頭の悪そうな言い方になっているのが我ながら情けないっす。
 そこで私は提案したいのだけれど、「ある」「ない」がきちんと対応した形の敬体というものを新たに考案してはどうだろう。もちろん言葉というのは国の文化であり遺産であるから、我々がひょいひょいと安易に変革してよいものではない。しかし、私は変えてしまえと言っているわけではなく、もともと存在しない言い回しを仕方がないから新らしく作ってみようと提案しているのだから罪は軽いのではないか。
 私の提案はこうだ。「あるなし」の敬体を、
「あるじぇりあ」
「ないじぇりあ」
 と定義するのである。
「あの犬、眉毛あったっけ」
「はい、あるじぇりあ」
「この犬、眉毛ないの」
「いいえ、ないじぇりあ」
 これならかなりすっきりする。
「先日はいろいろ世話になったね」
「いえいえ、とんでもないじぇりあ」
 もちろん、この言い回しが普及するまでは「おんどれ、ふざけとるんか」「なめたらあかんぞ、われ」などと回し蹴りされるかもしれない。だが、それに屈していてはこの新たな表現を勝ち取ることはできない。
 フランスからの独立を勝ち取ったアルジェリアに続け。行カスバ勝利はないじぇりあ。


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2000/03/28
文責:keith中村
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