第317回 スピードキング


 学校教育というのが嫌いなせいか、坊主憎けりゃというやつで、学校教育が金科玉条のごとくに偏重する個性というやつが大嫌いである。そもそも社会生活を営んでゆくうえでは如何に個を埋没させるかということが重要な問題であり、個性などというのは百害あって一利なしのものである。といっても、よく言われる「本当の個性というものはいくら押さえつけてもどのみち発露するものだから不必要に個性が大事だと煽りたてる必要はない」流の逆説を展開しようとしているのでもなければ、アイロニーでもなく、私はほんとうに心底個性など無用だと思っている。「個性を伸ばす教育」などという言い方は矛盾したもので、教育は個性を潰すものである。それが悪いと言っているのではない。教育とはそういうものであり、個性など潰してしまってものよいのだ。その代わりに教育は個人へものごとの基礎を徹底的に叩き込んで知的レベルを上げ、個の才能を伸ばせばよいのだ。個性を伸ばしても社会的には何にもならないが、才能を伸ばすことは大いに社会への貢献となる。
 譬えばかつて放浪の画家山下清という人がいた。モザイクやなんかを得意とした天才で芦屋小雁の兄でもある。この人の才能は何か。簡単なことである。
「絵がうまい」
 では、この人の個性とはいったい何だったのだろう。これも簡単な質問で、答えはこうだ。
「いつでもどこでもお握りを欲しがる」
 この人が個性を伸ばす方向へ進まなかったのは僥倖だ。もし周囲の人がこう考えていたらどうだったろう。
「清はお握りが好きだから、その個性を伸ばしてやろう」
 そんなことを実践していたら、清はクレクレタコラである。お握り星からやってきたお握り欲しいぞ星人である。お握りのために銀の食器を盗むような真似までやっていたかもしれない。あるいは、もしかしたらものすごくおいしいお握りを自らの手で考案し、「山下堂お握りチェーン」などというものを全国展開させてていたかもしれないが、それが社会にどれほど貢献できるというのだ。お握りなどはサラヤにでも任せておけばよろしい。清は絵という才能を伸ばすことで、歴史上に名を留める人間になったのである。
 私自身、個性的だと評価されたことは一度もないし、なくて幸いだと考えている。私はプログラムを書くことで日々パンを購い、またそれとは別に金にもならぬこういった文章を書き散らしたりもしているのだが、共に個性などまったく必要のない作業である。ソースコードも文章も同じようなもので、どちらもかつて誰かが書いたことをきっちり真似して整合性のあるようにまとめあげればいいだけなのだ。私が自分であみ出した個性的なアルゴリズムなどひとつもないし、自分であみ出した新しい言い回しだってひとつもない。個性的なソースコードなど書いても保守が大変になるだけだし、個性的な文章など読みにくいだけだ。たとえば、私が文章の最後を必ず「玉子ちゃんだよ」と結ぶ個性の持ち主だったらどうだろう玉子ちゃんだよ。確かにかなり個性的ではある玉子ちゃんだよ。前衛的ですらあるかもしれない玉子ちゃんだよ。しかし、文末ごとに「玉子ちゃんだよ」などと書かれたふざけた文章を誰が好きこのんで読むだろう。個性など埋没させるか潰すかに越したことはない玉子ちゃんなのだよ。
 だから、私は人びとがつい意図せず同じ行動をとるような場面に出喰わすとなんだか嬉しくなってしまう。個性の片鱗も感じさせない均一のふるまいを見ると喜んでしまうのだ。
 最近、私が発見したのは、人がこういう場合にとる行動だ。
「近所へ行こうと薄着で外へ出たら強い北風が吹いていて思いのほか寒かったので走っていった」
 たとえば、一ブロック先のコンビニエンス・ストアへ切れた電球の替えを買いにゆくときだ。あるいはコンビニエンス・ストアからの帰りでもよい。
 寒いと人は走る。寒さに晒される時間を少しでも短縮させたくて走る。だが、寒さは人の筋肉を収縮させる。だから、寒い中を走る人は必ず次のような走り方になってしまうのだ。
「下に向けてぴんと伸ばした腕を体の前で左右に振りながら、脚を伸ばしたままで走る」
 いったい、そんな走り方をするものだろうか、と訝しむ方は寒の戻りの日にでもよく観察していただきたい。人は例外なくそのような走り方になってしまうものなのである。下に向けてぴんと伸ばした腕を。ああ、ややこしい。つまりあれだ。簡単に言うとこういうことだ。
「寒いと、人は欽ちゃん走りになる」
 ここで言う欽ちゃんとは、萩本欽一のことである。万歳なしよ、の欽ちゃんである。寒さによって人は好むと好まざるとに関らず萩本の走り方になってしまうのである。しかも、これが速い。寒さから逃れるため、人はものすごい速度で欽ちゃん走りをするのだ。スピードキング萩本だ。
 私はこれを、近所のコンビニエンス・ストアへ切れた電球の替えを買いにゆこうとして発見した。寒い日だった。北風が吹いていた。そして、コンビニエンス・ストアへ向う人はすべて欽ちゃん走りになっていたのだった。もちろん私もそうだった。ちょっとだけ情けなかった。ちょっとだけ泣きそうになった。でも、みんな同じなんだと思ったら気が楽になった。没個性万歳。一億総萩本万歳。
 そして、入ったコンビニエンス・ストアの中は、さきほどまで欽ちゃん走りをしていた人びとでいっぱいだった。少年ジャンプを立ち読みしているこの青年もさっきまでは萩本だったわけだ。「かつてプリンスの名で知られたアーティスト」を「元プリ」と言うならば、こいつは「元ハギ」だ。あちらで弁当を物色しているサラリーマンも元ハギだ。清涼飲料水を選んでいるあの女子高生も元ハギだ。そして、六〇ワット電球を握りしめたままの私もまた元ハギなのであった。
 個性なんかなくてもいいじゃないか。君もぼくも萩本でいいじゃないか。良い妻悪い妻普通の妻は中原理恵だ。悪い妻のときは頭が爆発していた。万歳なしよ。
 というのが私の主張である玉子ちゃんだよ。


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2000/03/22
文責:keith中村
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