第312回 携帯論


 たとえば「文化」という言葉がもてはやされた時代があった。その時代において「文化住宅」は、まさに文化的な憧れの住宅であり、「文化庖丁」は夢の万能刃物であった。何でもかんでも文化の二文字を冠すればそれで見栄えがしたのだ。中には「文化お召し」というものまであった。といっても多くの人には何のことだか判らぬだろうからここはひとつ広辞苑から引用してやるのでありがたく思って読んでいただきたいのだが「壁御召縮緬の一種。経に紡績先染絹糸を、緯に壁撚糸を用い、湯通し・湯熨斗を施して波状を出した平織織物」とあって、私には結局何が何だかさっぱり判らぬのだけれど、織物の一種であるらしいことは間違いなさそうで、いずれにせよそんなものにまで「文化」だったわけである。文化の対語は自然であるようだが、むしろこれらの言葉において文化は未開や野蛮の対語として機能することで他との差別化を図ろうとしているようだ。すなわち、「この住宅は文化的だが、そっちは未開だ」「この庖丁は文化的だけど、それは野蛮です」ということなのだろう。「文化蚕種」というのまであって、これはその名のとおりある種の蚕らしいのだが、それまでの野蛮な蚕と比較して、
「ほら。こんなに文化的になりましたよ、お父さん、お母さん」
 ということなのだろう。
 かといって、「文化大革命」が決して、従来の革命と比べて文化的であったわけではなく、むしろかなり野蛮な闘争だったわけだから、なかなか一筋縄ではゆかない。
 近ごろは文化村というのもあって、これは「Bunkamura」と表記するほうが正式のようだが、今や手垢のついてしまった「文化」を使っている限りそんな小手先の技では如何ともしがたいのではなかろうか。「Bunkajutaku・ド・田園調布」などというのがあっても、私は入居したいとは思わないぞ。
 あるいはまた、「懐中」がもてはやされたこともあった。「懐中時計」「懐中電灯」「懐中日記」「懐中鏡」などがそうで、昨今のダウンサイジングという流行にもやや通じるものがある。「懐中汁粉」はいわゆるインスタント食品のはしりであるが、そんなもの懐に忍ばせてどうするつもりだったのだろう。お汁粉を持ち歩くというのはちょっとどういうものかと思う。また、「懐中火山」「懐中公園」というのもあるようだが、こうなるともう想像すらつかない。
 最近ではどうかと言えば、「携帯」というのがそれにあたる。かつて携帯は「携帯ラジオ」くらいにしか用いられなかったし、それすらも携帯できるラジオ以外は絶滅してしまっていたせいで口にされなくなっていた。だが、携帯は電話と結び付いて一躍時代の寵児となった。すでに「携帯」だけで「携帯電話」を表す勢いだが、他にも「携帯端末」というのもある。
 携帯は意味としては懐中とかなり近い。ただし携帯のほうが懐中よりやや大きめのものを表す印象がある。携帯電話は懐中電話と言ってもよい大きさではあるがそう呼ばれないのは、この言葉ができた当初携帯電話がまだ懐中にするにはちょっと大きすぎたことと、比喩ではない実物の「懐」がなくなってしまったためだろう。思い出した。「携帯」は他にもあった。
「携帯トイレ」
 これはこれでやはり懐にはしたくないのであった。
 今後、さまざまなものが「携帯」の名を冠して登場するかもしれない。これまで一定の場所に設置して利用するしかなかったものが携帯できるものとして生まれ変わるかもしれないのだ。
 たとえばこういうものが出てくれば便利だろう。
「携帯仏壇」
 なにしろ仏壇といえば仏間に据えるしかなかったわけだが、これが持ち運べるとなればこいつはいい。いつでもどこでも御先祖様と一だ。
 さらに、こういうのはもっとよろしい。
「携帯大仏」
 従来、奈良や鎌倉に参拝するしかなかった大仏が携帯できるのだ。これは素晴らしい。もう電車の中であろうと喫茶店であろうと拝み放題だ。萬屋錦之介は拝一刀だ。「携帯」と「大仏」は撞着していると思われるかもしれないが、不可能を可能にするのが科学の進歩だ。
「携帯天皇」
 ご存じのように、天皇というのはこれまで一定の場所に設置して利用する他はなかったわけだが、こういうのが登場すれば、いつでもどこでも一般参賀だ。かぶりつきで手を振ってもらえる。
 だが、あまりにも携帯天皇が普及してしまったせいで、こういうアナウンスがなされるのであった。
「車内での携帯天皇のご使用は他のお客さまのご迷惑になりますのでご遠慮ください」
 かくして西暦二〇一〇年、車両のつなぎ目で携帯天皇を利用する風景がありふれたものとして見られるようになったのである。
 なったのである、じゃないだろ。


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2000/02/29
文責:keith中村
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