第310回 モンタージュ理論


 映画の文法なんていう言葉があって、文脈によってはかなり鼻持ちならない使い方をされたりもするのだが、とにかくその「映画の文法」と呼ばれるもののうち、非常に基本的な事項として「モンタージュ理論」というのが存在する。モンタージュというのは、組み立ての意味らしいので、警察が犯罪捜査に利用する例のモンタージュ写真と本来の意味は同じだが、あれではなく、複数の映像を組み合わせてそこに新しい意味を作り出すのがモンタージュ理論である。
 たとえば、「笑っている男の顔」という映像があったとする。そこに存在するのは「笑っている男の顔」というだけの情報である。ところが、「揺り籠ですやすや眠っている赤ん坊」の映像のあとにこの「笑っている男の顔」を映すと、男が慈愛に満ちた笑みを浮べて赤ん坊を見つめているように見える。一方、「風でまくれあがったスカートを慌てて押さえている女子の人」の映像のあとに「笑っている男の顔」をつなぐと、途端にその笑顔が助兵衛で猥雑なものに見えるようになる。つまり、映像の組み合わせによって「やさしさ」「いやらしさ」など、単一の映像では伝達できなかった情報を表現するのがモンタージュ理論なのだが、もちろんこんなことは現代では理論だの技法だのと呼ぶのが恥ずかしいくらいに当たり前の演出で、二人の人間が会話している場面で向いあっている二人の映像だけで押し通し、それぞれの顔のアップの切り返しショットを挟み込まないのは場合によってはむしろ怠慢とも言えるし、映像理論なんて一切勉強していないお父さんだって家庭用ビデオを編集するとき無意識にこれくらいのことはやっている。
 モンタージュ理論はエイゼンシュタインが考案したとされていて、こんなごく当然の演出も彼以前の映画にはなかったのだそうだ。そう思って黎明期のサイレント映画を観ると、たしかに、あたかも客席から舞台を眺めるように固定されたカメラがずっと同じフレームをおさえ続けている。もちろんこれはこれで、後々には「長回し」などと呼ばれ、日本では相米監督あたりが得意とする奇妙な緊張を味わわせるスリリングな技法となるのだが、サイレントの頃は科白をとちってもNGにしなくてもよいわけだし、監督はカメラの隣りから始終メガホンでがなりたて、演技中の役者にどんどん指示を出せたのだから、何とも安直な方法だったわけだ。この辺の事情は「雨に唄えば」におもしろおかしく描かれている。
 モンタージュを上手に使えば、現実には実現が困難な場面であっても映像として構築することができる。
 たとえばこれは、実際にあるテレビコマーシャルでやっている奴だが、「卓球のラケットでスマッシュする映像」に「ピンポン球を口に咥えている男の顔」をつなぎ、更に映像の切り替わる瞬間に「ぽこっ」という効果音を入れると、ピンポン球をはじめから口に咥えていても、打った球が巧く口に飛び込んだように見える。
 ジョー・ダンテの「グレムリン2」は全篇映画のパロディに溢れていて、中でも傑作なのは途中でフィルムが止まってどろどろ溶けてしまうシーンだ。ここは劇場で観ていると本当に映写事故が起こったのかと吃驚する。すると特別出演のハルク・ホーガンがいきなり登場して「悪戯するな」とグレムリンをどやしつけ、映画が再開される仕掛けになっているのだが、ご叮嚀なことにビデオ版ではこれが監督自らの手によって、「ビデオテープがワカメ状に伸びて回転ムラで映像が乱れた」ように見える演出に挿し換えられている。で、その直後にビデオ版ではハルク・ホーガンのかわりにジョン・ウェインが登場してグレムリンと撃ちあいをする場面になって、このジョン・ウェインはおそらく「リオ・ブラボー」からだと思うのだが、銃を撃つ映像をそのまま引用し、切り返してグレムリンが応戦する映像をつなぐことで、死んだはずのジョン・ウェインが本当に「グレムリン2」に出演しているように錯覚される面白いパロディであった。これなどは、既存の映像に新たな意味を附加したわけで、モンタージュの中でもかなり興味深い例である。
 考えたのだが、モンタージュ理論を文章に応用することはできないものだろうか。既存の文章を組み合わせることで、新たな意味を作り出す試みだ。
 やってみよう。
「山路を登りながら、こう考えた。スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら」
 これは、漱石の「草枕」と太宰治の「斜陽」をモンタージュしたものである。そんなことわざわざ山に登っているときに考えなくてもいいじゃないか。これでは、主人公はかなり駄目な人になってしまう。
 もっとやってみよう。
「恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある」
 今度はお判りのように「人間失格」と「坊っちゃん」である。なんと、あの陽気で闊達な坊っちゃんが何とも情けない駄目な人になってしまった。
「二階から飛び降りてすみません」
「腰を抜かしてすみません」
 こんな坊っちゃんでは困る。生徒から苛められて自殺しかねないぞ。太宰治とモンタージュさせるのはどうもよくないようだ。
 でが、こういうのはどうだろう。
 谷崎潤一郎の「細雪」とガルシア・マルケスの「百年の孤独」から、それぞれ一行ずつ交互に引用してみるのだ。
「車掌さん、この寝台使わしてもろてもええやろか」
「馬鹿いっちゃいけない、アウレリート」
「何で」
「煮えくり返ってるよ、これ!」
「ほんになあ」
「あっちへ行って」
「何云うてはりまんねん」
「どう元気、人喰い土人さん?」
「何でですねん」
「おい、叔母と結婚してもいいのか?」
「やっぱり交際は止めて貰わんならんかも知れんな」
「かまうもんか、アルマジロが生まれたって」
「若いなあ」
 なんだか、それなりに会話になってしまうところがすごい。漫才のようでもある。アウレリャーノ・ブエンディーアのボケに対するこいさんのツッコミが怖いくらいに的確だ。
 侮りがたし、モンタージュ。だから清の墓は小日向の養源寺にある。


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2000/02/19
文責:keith中村
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