第307回 回すべきこと


 文化というものは恐ろしい。
 しきたりとかならわしとか、悪く言えば因習とかそういうもの、あるいはもっと卑近な慣習とか習慣とかいうものを考えてもいいのだが、とにかくこういったものは国なり地域なりの固有の文化と密接に関り合っている。私にとって恐ろしいのは、この文化というやつにどっぷり浸かってしまうことである。何ごともそうなのだろうけれど、如何に奇妙なものごとであっても、浸りきっている人間にとってそれは、「そういうものだから」「そういうことに決まっているから」と無批判に受け入れられる事実になってしまう。これが恐ろしい。
 たとえば茶の湯というのがある。ご存じのようにあれは茶碗を三度回してからいただくということになっている。私は不勉強だから、この行為にどんな意味が込められているのか知らない。おそらくは何ごとか重要な意義があるのだろうけれど、今はそれを措いておいてとにかく三度回すということ自体について考えたい。
 回すのである。
 どう考えてもこれは奇妙な行為である。
 たとえば、もし我が国にこういう習慣がなく、かわりに英国にあったとしよう。
 回すのである。彼らは紅茶の入ったカップを回すのである。
 午後のティータイムというやつになった途端、どこの家庭でもくるくる回すのだ。ソーホーからブライトンまで、上流階級から一般庶民まで、女王陛下からパンクスまで、とにかくくるくるさせるのであった。
 そういう習慣を持たない我々としては、それをいったいどう受け止めればよいのだろう。そういう光景を初めて見たとして、どんな感想を抱けばよいと言うのだろう。
「なんか、くるくるしています」
 そう思う他はないだろう。どう考えてもそれに意味など見出せない。なにしろ回っているだけなのだから。好奇心に駆り立てられてあなたは、質問するかも知れない。
「なぜぃえ、カップうぉう、三回ぃ、回すぅのデスカァ」
 いや、何もあなたが片言の日本語になっても仕方がないんだけれど、とにかくあなたはそう訊ねる。すると、リプトン卿(仮名)は穏やかな口調でこう答えるのであった。
「一回は私のため。一回はあなたのため。そしてもう一回はティーポットのためなのです」
 騙されるな。そんなので説明になるものか。奴らはきっと「昔からそういうことになっているから」回しているだけに違いないのだ。
 私の言うことがお判りいただけるだろうか。奇妙なことを奇妙と感じる感覚を麻痺させる文化の恐ろしさを。そして、思い出していただきたい。三度回すのはリプトン卿(仮名)ではなく、ほんとうは我々自身なのである。
 歴史に「もし」は禁物であるが、さらに考察をすすめるなら、もし、茶道がこういうしきたりになっていたらどうだったろう。
「お茶の席では、座布団を三度回すべきこと」
 村田珠光が仮にそういうことを思いついていたら。我々は何の疑問も批判もなく、座布団を人差し指の上に載せてくるくるやってしまっていたことだろう。これじゃ、まるで桂小枝じゃないか。山田くん、全部とっちゃいなさい。
 あるいは、武野紹鴎あたりが迂闊にもこういうことを考案していたらどうだろう。
「お茶の席では、茶坊主を三度回すべきこと」
 お茶をすすめられても、すぐに飲んではいけないのだ。まず回すのだ。
「それでは失礼をば」
 そういうことを言ってから、茶坊主をくるくる回すのだ。三度だ。
 更に、武野はこういう取り決めも考案しているのだった。
「回された茶坊主は、高い声で『あれー』と言うべきこと」
 私は何も冗談を言っているのではない。あり得たかもしれない可能性を論じているのだ。この可能性のもとでは、我々はごく自然なこととして茶坊主をくるくる回すだろうし、茶坊主は茶坊主でごく自然なふるまいとして「あれー」と言うのである。
 もっと恐ろしい可能性を考えよう。
 あるいは千利休がこういうことを提唱していたかもしれないのだ。
「お茶の席では、自分が三度回るべきこと」
 それだけではない。あまつさえ、
「手は高く上に差し上げ、揃えておくべきこと」
 私じゃない。利休だ。利休のやつが言うのだ。そんなことをしたら眼が回ってしまうじゃないか。ひどい奴だな。
 それでも、我々は何の含羞もなしにくるくると回ってしまうことだろう。
 と、ここまで書いて気付いたのだが、よくよく考えると茶道では三度ではなく二度しか茶碗を回さないのだ。なんということだ。勘違いでここまで書いてしまったのだ。
 こうなれば、もう例の奴を呟くしかないだろう。
「いつもより余計に回っております」
 いずれにせよ、文化というものはまったく恐ろしい。


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2000/02/05
文責:keith中村
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