第303回 下手の猫好き


 学生時代、下宿で猫を飼っていた。本当は飼ってはいけないのだが、飼っていた。経緯は次のとおりである。
 私が所属していた映画研究部で、ある撮影班がロケに出かけた折、黒い野良の仔猫を拾ってきた。飼い主を募るあいだ、とりあえず私が面倒を見ようと申し出た。猫が好きであるし、下宿ではあるが二三日くらいなら大丈夫だと思ったからだ。ところが、結局情が移って手放せなくなってそのまま飼うことになってしまったのであった。
 胃炎の先生のうちの猫と同じく、この猫には名前がなかった。とりあえず「猫ぴょん」やら「黒ぴょん」やらという杜撰な呼ばれ方をしていた。そのうち、近所のボス猫にでも手籠めにされたか、腹が脹らんできて、やがて仔を産んだ。それ以降は「お母しゃん」とやはり投げやりな呼び方をされた。
 生き物を飼ってはいけない下宿だったので、廊下など他人の眼があるところで「猫ぴょん」と呼ぶわけにはいかない。そこで、そういう場合には「鮒田くん」と呼ぶことにしていた。これは映画研究部の部員の名前を借りたのである。
「ね……いやいや、鮒田くん、元気してる」
「あれ。鮒田くん、どこ行ったのかな」
「さっきまで餌いやいやご飯食べてたよ」
 鮒田くんは、何度も仔を産み、さらにそいつらが仔を産み、やがて下宿は猫屋敷と化してゆくのだが、それはまた別の話である。
 さて、先日、「現代」の二月号を買ったら、九谷オー先生ではなくて本物の丸谷才一先生が「あの有名な名前のない猫」という評論を発表なさっていた。題名から判るとおり漱石の「猫」に関するものである。
 この評論で丸谷氏は、「猫」の第二章冒頭のくだりを紹介して、次のように述べている。

 みんなが知つてゐる箇所なのに改めてくだくだしく紹介したのは、ここを問題にした人のあることを知らないからである。何しろ漱石論は汗牛充棟だし、わたしの調べはいい加減だから、案外ゐるかもしれないが、そのときは御免なさい。

 そう断り書きしておいて、次のように続く。

 この一つながりのおもしろさは、第一章が「ホトトギス」一月号に発表されて大評判になり、そのせいでモデルの猫まで人気者になつたといふ事情がぬけぬけと書いてあることで、人を喰つてゐるとも、幼稚とも、低俗とも言へる。

 その後、この部分を引き金にメタフィクション論が展開される。

 猫は二つの次元をゆきつ戻りつするし、読者もまた小説の内と外とを同時に生きる。

 これを読んで、私はあれれと思った。丸谷氏は「問題にした人のあることを知らない」と書いているが、確か誰かの文章でこの構造はすでに指摘してあったと思ったのだ。どこだったっけ、と考えるうち、思い出した。

 余談になるが、「猫」を再読して気づいたこと。第二章以降、しばしば「吾輩も有名になったものだ」という記述がある。一章で苦沙弥先生が猫について知人に触れて回るくだりがないので、これは「『猫』が『ホトトギス』に掲載されたゆえ知名度があがった」という意味になる。すなわち、ここ最近流行っているところの「メタフィクション」的構造を夏目漱石はすでにあの時代にやっていたのだ。やはりただ者ではない。

 という文章で、何のことはない、書いたのは私自身であった。第75回である。
 碩学の丸谷才一が「知らない」というくらいだから、もしかしたら私はとんでもない大発見をしていたのではないか、と有頂天になってしまった。鼻高々で丸谷氏の文章を読んでいると、最初に引用した箇所のあとにこう続いていた。

 人を喰つてゐるとも、幼稚とも、低俗とも言へる。高級な文学好きが論じないのももつともなことか。

 つまり、論じてしまった私は低級で、しかも人を喰っていて、なおかつ幼稚で、あまつさえ低俗だということではないか。何ということだ。その通りじゃないか。侮りがたし、丸谷才一。


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2000/01/16
文責:keith中村
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