第289回 寒山拾得


 人間は複雑な生物であるなどと言いながら、我々はしばしば人間をたった一言で言い表したり、たった一言で認識したりする。たとえば、アムンゼンという人間を我々は「はじめて南極点に行った人」として認識しており、スコットはといえば「アムンゼンに負けてしかも遭難して死んだ人」ということになる。あるいは渥美清という俳優はもっと少ない語数すなわち「寅次な人」と捉えているし、ショーン・コネリーも本来ならば同様に「007な人」と捉えられるべき人間であった。ただし、彼の場合は迂闊にも転身を図ったばかりに「昔ズラつけてたのがばれた人」という不名誉な認識をされるようになってしまった。
 万人が認める偉大な業績を残した人間ならば、その業績をもって一言で要約されることも、本人にとってやぶさかではないだろうけれど、たとえばショーン・コネリーだって何もズラつけてたのがばれただけではなく、他にも「勇猛果敢にもズラであったことを告白した人」とか、「『未来惑星ザルドス』では禿で裸の原始人の役で走りまわっていた人」とか、「とにかく禿の長老役ばかりするようになった人」とかいくらでも功績はあるのに、それを単に「昔ズラつけてたのがばれた人」で片付けるのはやや可哀想であり、本人も草葉の陰で泣いているだろう。まだ死んでないけど。
 もちろんそれでも、キダ・タローのように「ズラであることがばればれな人」という認識よりはいくらかはましであろうし、そう考えればキダ・タローのほうがもっと気の毒で、やはり彼も草葉の陰で泣いていることだろう。いや、だから勝手に殺してはいけない。
 ところで、何かのはずみでぱっと有名になってしまった市井の人間に関しては、その人を有名にせしめた事件以外われわれに与えられた情報はなく、よって必然的に我々はその人を、その人を有名にせしめた事件の人として認識する他はないのである。
 かつて大貫さんという人がいた。この人を我々は「一億円を拾った人」として記憶している。記憶力の良い人やテレビのワイドショーにかじりついていた人ならば他にも「一億円の受け取りにジョギングの変装でやってきた突飛な人」とか「拾った経緯を手記にしてあわや作家デビューしかけた人」、「拾った経緯を歌にしてあわや歌手デビューしかけた人」などとやや詳らかに憶えているかもしれないが、それにしてもどれもこれもちょっといかがかと思うようなことばかりであるのは困ったものだ。
 一億円を拾うというのはかなり稀有な僥倖である。一億円である。念のため断っておくが、一円を置くのとはわけが違う。一億円、大金である。大金ではあるけれど、これがひとたび「拾う」となれば、どうしようもなく貧乏臭くなってしまう。いったいこの貧乏臭さはどこからくるのだろう。
 思うに、これは「拾う」という行為は「落す」という前提がなければ成り立たないものだからではないか。あらゆるものは「落す」ことで価値を失う。壊れやすいものはもちろん落すことで粉砕破壊され、元来の値打ちをなくしてしまうし、食物は落すことで食べられなくなってしまう。あるいはそのような、落下させることで物理的に質が変化してしまうものでなくとも、落とすという行為は呪術的にものの価値を下げてしまうのである。ある程度気のきいた店では客に渡す釣り銭を手を滑らせて地べたに落したときには、拾いなおすのではなく新たにレジからとり出して渡してくれる。これも、本質的には落としても何ら変わりのないはずの金銭が呪術的には「客に渡すには失礼なもの」に変化してしまうからであろう。
 そんなわけで、落すことによって価値を失くしたものをさらに「拾う」ことに貧乏臭さがつきまとうのも肯けるというものである。いったん落した食べものを「三秒ルール適用」などと叫びながらつまみあげ、ちょちょっと汚れを払って口に入れるのも、泣けてくるほど貧乏くさい。
 だが、貧乏臭い貧乏臭いと言いながらも、ついつい拾ってしまうのが人間の悲しい性でもある。路面にきらりと光るものを「あっ。お金落ちてる。よっしゃあ」などと拾い上げ、しげしげ眺めるにそれが硬貨ではなくボルトに挟み込むワッシャーであることが判明したときの虚脱感といったらない。ワッシャーなのに、よっしゃあ。まったく情けない。
 貧乏臭いどころか、拾うことでむしろ損をすることもある。お金を落すときには同時に厄を落としていると言われるので、呪術的にはお金を拾うことは厄をしょいこむことになってしまう。また、よく言われることに、一円玉を拾うための運動量を金銭に換算すると一円以上かかるというのがある。だから、こういうのは文字通り骨折り損のくたびれ儲け、まさに拾う困憊というやつである。
 だが、それでもある程度まとまった金であればついつい拾う誘惑に負けてしまうこともあり、さらにはついつい着服したい誘惑にかられることもある。それでも、拾った金は四の五の言わずに黙って正直に交番へ届けるに越したことはなく、こういうのを拾得だけに、普賢実行という。
 それにしても、なんだか、この文章を読み返してみるとどうにもまとまりがなく散漫である。先程からふたつも駄洒落を書いたのに、どうもきちんと落ちない。
 考えてみれば、それもそのはず。拾う話だった。


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1999/12/05
文責:keith中村
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