第288回 まる


 先日も少し書いたが、日本人にとっては肯定否定の意思表示を明確にしないことが美徳ということになっている。まあ、そんなことは大昔からさんざん言われ尽くしてきたことではあるけれど、改めて考えてみると確かにこれは大いに実感できることである。
 たとえば私は学生時代、自主制作の映画を撮るクラブに所属していたのだが、スタッフとして駆り出されることもあった。路上で撮影をおこなう場合には、「人払い」が重要な仕事になる。フレーム内に通行人が写り込まぬよう、本番中に人がやってきたら「すみません」などと言いながらカットがかかるまで待ってもらうのだ。場合によっては、通行人だけでなく自動車が写っても困る撮影もあったのだが、さすがに自動車を停めて待ってもらうことはできない。というのも、たかだか素人の自主製作であるし、そもそも我々はたいてい警察への申請(路上撮影では、これをしないと本当は道交法違反)なしに撮影していたからだ。そこで、自動車がやってきては困る撮影では、遠くに見張りを立てるようにしていた。見張りは自動車が接近していないのを確認した上で、OKのサインを出す。そのサインが出ればカメラを回しはじめるのであった。
 私も何度かこの見張りをやったが、これがなかなか大変である。
 撮影現場と見張りの距離が声が届く程度なら、声を張り上げて「オッケイすー」と叫ぶのだ。でかい声で「オッケイすー」だ。かなり恥ずかしいのである。嘘だと思ったら試しに叫んでみてほしい。「オッケイ」「はーい」「イエース」そういった肯定の言葉をでかい声で叫ぶのは、どういうわけかとても恥ずかしいことがお判りいただけるだろう。
 恐らく西洋人なら、この種類の行動にそれほど羞恥を感じないのだろう。彼らは頻繁に「おー、いえー」などと叫ぶ。もちろん日本人だって、ライブに行ったりすると演奏者に向かって「いえい」などと声を張り上げることもある。しかし日本人はそういう際、頭の中で「ひゃあ。いえい、なんて言っちゃったよ。まったく」と呟いているのだ。「でも、ま、いいか。ライブなんだし」ライブという祝祭空間に身を投じることで、旅の恥は掻き捨て的に「いえい」と叫ぶことができるようになるのだ。が、ひとたび家に帰り一人きりになると「ああ。俺、いえい、なんて言ったんだよなあ」と自己嫌悪に苛まれたりする。あるいは翌朝歯磨きをしているときに、しげしげ鏡を覗き込んで「なんか、高島忠夫に似てきた気がする」などと不安にかられたりするのだ。
 話が逸れた。
 ともかくそのように、恥ずかしい大声を出さねばならぬのだが、声が届かないくらい離れたところに見張りに立つと、もっと困ったことになる。今の時代なら携帯電話で連絡もとれようが、その頃はそんなものまだまだ普及していなかったので、人間のもっとも原始的な信号であるところの身振りでOKの趣旨を表すことになる。
 間近での「OK」なら如来像のように指だけで表現できるのだが、遠隔地の「OK」はそうはいかない。両腕を挙げて、頭上に大きな丸を作らねばならないのだ。頭の上に大きな丸である。しかも、恐ろしいことには、どういうわけかこの恰好をすると自然と足もがに股に開いてしまうのだ。だから、丸というよりはむしろ8の字に近い様相を呈してしまうのである。これは恥ずかしい。更には、情けなくなってくるのだ。
 この恥ずかしさ、情けなさを払拭する方法は当時ひとつだけあった。その方法とは、こう思い込むことだ。
「俺はいま矢崎滋だ」
 当時、日本酒の宣伝で矢崎滋が漁船の上で、この恰好をやっているのがあったのだ。
 私はひたすら思い込んだ。
「そうだ。俺は矢崎だ」
 そう繰り返すと何だか本当に自分が矢崎滋であるように思えてくるから不思議だ。どこかで誰かが「あなたあ、今日、呑みますかあ」と叫んでいるような幻聴も聞こえてくる。ぽんぽんぽんぽんという焼玉エンジンの音まで聞こえる。そうだ。俺は矢崎滋だ。今、矢崎滋だ。とっても矢崎滋だ。何しろ矢崎滋だ。待ってろ、母ちゃん。今日は大漁だべ。
「大漁」という言葉を使うと、怪しげで中途半端な東北弁になるのはどうしてだろう。いや、そんなことはどうでもいいのだ。そうだ。どうでもいいのだ。人生には矢崎の時もある。矢崎でない時もある。そして、今は矢崎の時だ。グッド・タイムス、バッド・タイムス、そして、ヤザキ・タイムス。
 何の話をしていたのだっけ。そうそう。そんなわけで、日本人は肯定否定をあたかも矢崎滋のごとく明確に伝えるのは不慣れなのであった。
 ところで、私はまだ独身である。別段、結婚がしたくないわけではない。ただ、残念なことに人間はミミズのように一人で結婚するわけには行かぬのだ。
 私は結婚したらぜひ購入したいと思っているものがある。
 これだ。
「イエス・ノー枕」
 もしかしたら、これは売り物ではないのかもしれない。でも、東急ハンズへ行けば何とかなりそうな気もする。
 やはり夫婦生活にイエス・ノー枕は必需品であろう。
「あなたあ、今日、やりますかあ」
「(手を頭上に)マル」
 矢崎でもあるまいに、そんな恥ずかしいことできるわけがない。夫婦の慎み、イエス・ノー枕だ。夫婦のたしなみ、イエス・ノー枕だ。
 まあ、欲を言えばイエス・ノー枕よりもっとほしいものがある。
「イエス・イエス枕」
 もしかしたら、そんなものはないのかもしれない。でも、ロフトへ行けば何とかなりそうな気もする。
 しかし、間違ってもこういうものを買ってはいけない。
「イエス・キリスト枕」
 もしかしたら、やはりそんなものはないのかもしれない。


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1999/12/02
文責:keith中村
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