第278回 快楽の考察


 快楽について発見したことがあるので報告させていただく。
 エピキュリアン、ホモ・ルーデンス、享楽乞食等等形容する方法はいろいろであるが、ともかく人間というのはどうにも娯楽を求めずにはいられない生き物である。人間が娯楽を求むるがゆえ、音楽美術文学等の芸術が発展を遂げてきたわけであるし、そしてまたあまたの文化が生まれてきたのである。娯楽というのは、その言葉どおりに楽しいことすなわち快ちよい感覚、快楽を得る手段であるけれど、ここで意識しておきたいことは、快楽の中には苦痛悲しみ恐怖等負の感覚負の感情までもが含まれている事実である。
 たとえば人は往々にして鼻毛を抜く。ご承知のように鼻毛を抜くと痛い。場合によっては、まなじりに涙が溜まるくらい痛いいたい。あるいは、何がどういう具合に作用したのか判らないがくしゃみが止まらなくなって死にそうになることもある。にもかかわらず、人は鼻毛を抜くのである。不思議だけど、鼻毛を抜くのである。中にはあたり構わず無闇矢鱈と抜く者もいる。そりゃもう抜く抜く。何故だろう。
 それが苦痛であるならば、人は避けるはずだ。鼻毛を抜く行為を積極的におこなうのは、それが快楽であるからだとしか考えられない。では、いったいどういう種類の快楽なのだろうか。
 私はここに「充実感」の三文字を当てはめたい。
「こんなに太いのが抜けました」
「こんなに長いのが抜けました」
「こんなにたくさん集めました」
 鼻毛を抜く行為にはそのような充実感があるのだ。しかも鼻毛のすごいところは、その充足への過程が優れている点である。不幸な出来事のあとで手にした幸せというのはたいへん大きく感じる。高倉健の任侠ものの大団円で我々が大いにカタルシスを感じるのは、そこに到るまでに彼がさんざん痛めつけられている状況を観ているがゆえに得られるものである。ウルトラマンがはじめにわざと負けるのもそうだ。そして鼻毛しかり。鼻毛を抜くときの痛いいたい辛いつらい気持ちがあるからこそ、その後に得られる快楽はいや増す。まさに飴と鞭なのであった。
 思うに、こういった種類の快楽は人間だけが得ることのできる、かなり高度なものなのではないか。考えていただきたい。敢えて鼻毛を抜く猿がいるだろうか。鼻毛を抜く犬がいるだろうか。鼻毛を抜く海豚がいるか。
 他のことがらを考えてみよう。たとえば洟をかむとしよう。
 なんだか鼻のことばかりで済まない気持ちもするが、お付き合いいただきたい。
 洟をかむとする。さて、その後、あなたはどういった行動に出るだろう。
 そこが人前であり、抑止力が働いている場合、あるいはあなたがよほどの嘘吐きででもなければこれだ。
「ひろげて、しげしげ眺める」
 いったいその行為にどんな意味があるというのだろう。しかし、あなたはやってしまうのだった。そしてあなたは満足げに頷いてこう呟く。
「いやはや。たくさん出ましたねえ」
 中には、そう呟いている人のところへ「どれどれ。僕にも見せておくれよう」と近づいてゆく人もいる始末だ。
 これは鼻毛を抜く行為よりもさらに高度な快楽であると私は考える。鼻毛を抜くことには、先ほど示したように「苦痛/不幸」から「快感/幸福」への状態遷移があった。
 だが、この場合はどうだ。
 洟水はどちらかというと気持ちよいものではない。アメーバさんの親方みたいなものである。だが、その気持ち悪い洟水を見るのと同時にあなたは充足感による快楽を得ることになる。先ほどのような時間による感情の遷移、高低の差は存在せず、正負の感情はあくまでも同時にやってくるのであった。
 譬えていうなら、綺麗な女子の人とそうではない女子の人が向こうから一緒に歩いてくるようなものだ。あるいは誕生日とクリスマスが一緒にやってきたようなものだ。いや、これはちょっと違うかもしれない。
 いずれにせよ、かんだ洟を眺める習慣というのは、鼻毛抜きと比較しても、快不快が無秩序で混沌として曖昧であり、それゆえにこの行為はかなり高度であり、なおかつ屈折した快楽ではないだろうかと考えるのだ。いうなれば、諧謔趣味ならぬ快虐趣味といったところか。
 そう。まさにこれが私の発見であり、主張なのであった。
 だから何だよ、と言われると困ってしまうが。


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1999/11/14
文責:keith中村
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