第272回 SF礼讃


 私はSFに恵まれて育った。父がSF小説をこよなく好んでいたため、我が家の書架はSF小説でまさに汗牛充棟であった。なかでもハヤカワのポケットブックいわゆるHPBというシリーズはめぼしいところがほぼ初版で、しかも「お手許に綺麗なままの本をお届けしたくってこんな簡単な函をつくってみました いわば包装紙がわりです お買上げ後にはお捨てください」という例の箱に入ってずらりと並んでいた。まさにマニア垂涎の書架である。HPBは古本屋では常に高値がついており、今でも私は古本屋の棚を眺めては「ふふん。こんなの全部あるもんね。しかも初版だもんね」などと阿呆面でにやにやしてしまう。もちろん、それは私ではなく昭和三十年代にそれらを買い漁った父の功績なのだが。
 親が読書好きであれば子は抛っておいても本を読むようになるというのは本当のようで、私はその膨大な書籍を高校にあがるまでにすべて読破してしまった。もっとも、これが世界文学全集だの日本古典文学大系だのであったら素晴らしいことなのだが、そうではなくSF小説だったということに忸怩たる思いがあるが。かつては「SFばかり読んでいると馬鹿になる」ということがよく言われていたが、確かにその生きた見本のような駄目人間になってしまった。まあ当時うちにあったのは何もすべてがSFというわけではなく、ゆえにSFばかり読んでいたというわけでもない。他にもいろいろあった。たとえば夢野久作全集やらビアスの「悪魔の辞典」やらも読んだのだ。いかん、ますます駄目か。
 さまざまなSF小説のジャンルのなかで、特に私が惹きつけられたのがタイムマシンもの、いやもっと広義に時間テーマものであった。実際このジャンルにはSFの中でも傑作が多いように思う。
 時間テーマのうちで私が選ぶ最高傑作はというと、まず海外ではハインラインの「夏への扉」、国内では広瀬正の「マイナス・ゼロ」である。共にある世代以上の人にとっては定番中の定番であろう。どちらも中学の頃、徹夜で読んだ記憶がある。寝る前に少しだけ、と頁を繰っていたらあまりに面白くて辞められなくなってしまったのだ。
「夏への扉」は現在でもハヤカワ文庫で売れ続けているロングセラーである。訳はHPB初版の福島正実のものが今でも改訳なしで使われているようだ。福島正実は言わずと知れた当時の「SFマガジン」編集長、日本におけるSFの育ての親である。ハインラインというとむしろ硬派のSF作家で、タンスターフルとか、背中になめくじが貼りつくやつ(先日これを原作にした映画をテレビでやっていた)とか、一説にガンダムの原案と言われているやつとかを書いているのだが、「夏への扉」はいつになく抒情的な話になっている。重要な役割で一匹の猫が登場するのだが、私は猫が好きな人には必ずこの本を薦めるようにしている。私も猫好きだよという人は是非読まれたい。
 広瀬正は三度直木賞候補になった直後心臟発作で夭折し、現在ではすでに忘れ去られた作家となってしまった。人に話すと反原発の広瀬隆と誤解されることもある。この人はタイムマシンに憑かれた男であり、「タイムマシンのつくり方」という傑作短篇集もある。もと河出書房新社から出ていたハードカバーが絶版になったあと、昭和五十七年に集英社文庫がすべて復刊してくれたがこれも今や手に入らないだろう。古本屋でこの人の本を見つけたらどれでも買っておいて損はない。なかでも「マイナス・ゼロ」は超一級である。粗筋は現代(といっても執筆された当時の六十年代であるが)の青年が大戦前夜の東京にタイムスリップするというものであるが、まあこんなものは粗筋がどうのというものでもない。もし運よくどこかで発見されたらぜひ入手されたい。
 ウェルズが産んだ時間テーマはその後どうも感傷的な方へと発展してきたようで、この二作などはその筆頭であるが、他にも感傷的抒情的悪くいえば「ぽえー」な作品が多い。
 映画の世界でいうなら、私の世代では筒井康隆原作の角川映画「時をかける少女」は欠かせないだろう。まああれを「ぽえー」にしたのは大林監督なのだが、いまだに「ケン・ソゴル」とか「いじわるゴロちゃん」とかいう言葉にぴく、と反応してしまう人は結構いるのではないかと思うが、そこのあなたもそうじゃありませんか。あるいは例の桃栗三年柿八年が歌えるとか。そんな人はまるで駄目。
 海外作品では「ある日どこかで」という佳作があった。一九八〇年の作品で、監督は「スーパーガール」「ジョーズ2」のヤノット・シュワルツ(ジーンノット・シュワーク)。主演は「スーパーマン」のクリストファー・リーヴ、九十五年の落馬事故はショックであった。今回調べてみるまで私はこの映画の原作をずっとジャック・フィニィだと思い込んでいた。実は「激突!」のリチャード・マシスンであったのだが、私がそう思い込んでしまうくらいジャック・フィニィめいたノスタルジックな映画だったのだ。確か途中で出てくる時間旅行研究家の博士が「J・フィニィ」という名前だったはずだから、あきらかに意識はしているのだろう。この映画のエネルギーは徹底的に一九一〇年代の郷愁を追求する方向にむいており、そのため時間を遡行する部分は「その時代の服を着てベッドに横になり、今が一九一〇年代だとひたすら思い込むこと」などと、硬派な人が見たら卒倒しそうなくらい大雑把な設定になっている。大学時代のいっとき、この映画に惚れ込んだ私は部屋に来る友人に片っ端からビデオを見せていた。今でもテレビの深夜放送で何年かに一度はやっているようなので、機会があればご覧いただきたい。本当にいい映画です。
 それにしても、気がつけば今やSFはなくなってしまったように思う。ここで私がいうSFは古典的なサイエンス・フィクションすなわち空想科学小説のことではなく、ジュディス・メリルなんかが昔よく主張していたもっと広い意味でのSF、一時期よく言われた言い方では「センス・オブ・ワンダー」を感じさせてくれる小説のことである。私がSF小説というものに意識的になったのは十代の頭くらいからであり、これはちょうど「SFの浸透と拡散」などということが囁かれた時代であった。つまり、SFプロパー以外の作家がいわゆるSF的手法を取り入れたりあるいはもっとあからさまに純然たるSFと呼んでも差し支えないような作品を書きはじめた時代で、たとえば村上龍や大江健三郎の当時の作品と言えば判りやすい例になるだろうか(この辺の事情は筒井康隆の「SFの浸透と拡散」というそのものずばりのエッセイに詳らかである)。もちろんそれ以前にも安部公房という大いなる前例はあったのだが、これはまあ稀有な例外であり、同時多発的にSFが他分野に浸透拡散していったのはやはり一九七〇年後半あたりのあの時代からではなかったかと思う。
 その後、SFは浸透拡散というよりは雲散霧消してしまったように感じる。
 かつてロックとSFは私の信仰対象であったのだが、今では両者ともに子供のおもちゃが残っているばかりなのはたいへん悲しい。ああ。古い奴だとお思いでしょうが。
 結構共感される方も多いんじゃないかなとは想像するのだが、もしかなり退屈な話になっていれば申しわけありません。
 最後にHPB版「夏への扉」の巻末に添えられた福島正実の「『夏への扉』礼讃」からの引用。
「けだし、SFの傑作とは、虚構の世界に読者をひきずりこんで虚構の世界の空気に馴れ親しませ、牢固としてぬきがたいこの世の常識主義に、一撃をくわえるものだろう」
 尖っていた時代である。現在これくらい尖っているのはGNUのハッカー精神くらいではないかしら。


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1999/11/02
文責:keith中村
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