第271回 よろしかった


 はやっているというわけでもないが常套句としてしばしば使われる言葉、そういったものの中で奇妙な言い回しでありながらもしかしたら使い手が気のきいた言葉だと誤解して使っているのではないかと、聞いていて不安を覚える言い回しはいくつかある。
 買いものをして支払いに際して千円札をさしだすとする。こういうとき、かつていちばんよく耳にしたのは「千円お預かりいたします」というものであった。叮嚀であり、それでいて無駄がない。まさに間然するところがない。ところが、いつの頃からかこういった際に「千円からお預かりいたします」という言い回しが聞かれるようになってきた。「から」という格助詞が入るようになったのである。この言い回しはなかなか奇異である。千円「を」預かっているくせに、「から」などと言っているのだ。「から」の意味に忠実に従うならば「あなたの紙入れから千円をお預かりします」であろう。もっともそんなことを言われたらもっと奇異に聞こえてしまうけれど。まあ意図としては計算の起点を千円として、「千円から購入金額を引く計算をします」というニュアンスであるのだろう。判らぬでもない。だが、これはここほんの数年来のことであるが、もっと別の表現に出喰わすようになった。
「千円からでよろしかったですか」
 という奴である。この表現は特定の系列のスーパーマーケットやコンビニエンスストアでよく耳にするので、もしかしたら研修でそういう指導をしているのかもしれない。これも意図は推測できる。端数の硬貨を持っているのか、それともこのまま千円から清算してよいのかを問うているのだろう。しかし、常套句として使うにはあまりにも舌足らずな言い回しである。いい大人が「よろしかったですか」はないじゃないかと思う。なぜきちんと「よろしうございましたか」と言えぬのか。いやいや。それでもまだ問題はある。そもそも何故過去形なのだ。こう訊かれたらいったい何と答えるべきなのか。
「はい。よろしかったです」
「いいえ。よろしくなかったです」
 そのように答えればよろしかったですか。
 それから、飲食店とくに居酒屋等酒を飲ませる店でも奇妙な言い回しを聞く。注文した皿を店員が運んでくるときである。彼は卓上に皿を置きながら、きっとこう言うのだ。
「こちらがホッケになります」
 わくわくしながら皿を覗き込むと、すでにしてそれはホッケなのであった。残念に思いながら、サイコロステーキを頼む。しばらくして店員が皿を運んでくる。
「こちらがサイコロステーキになります」
 またどきどきわくわくして皿を覗き込むと、やはりそれはもうサイコロステーキなのであった。
 どうも私は間が悪い。「なります」と言うからには、きっとあのホッケは持ってくるまでは刺し身かなんかであったはずなのだ。こちらのサイコロステーキもさっきまでは揚出豆腐かなんかであったはずなのだ。そうに決まっているのだ。でなければ、「なります」なんて言うものか。「ホッケです」と断定するはずじゃないか。
 たいへん悲しいのだが、私はまだその瞬間を見たことがない。いちどくらいは見てみたいものだと思っている。たとえば、店員が持ってきた皿にスライスオニオンなんかが入っているのだ。そして、店員が言うのだ。「こちらが茄子の挟み揚げになります」その途端、ひゅう、どどん、などという音ならびに煙幕とともにスライスオニオンであったものは茄子の挟み揚げになるのであった。
「ああ。確かにたった今茄子の挟み揚げになりました」
 その瞬間をぜひ見てみたいのだ。
 だが店員が、「こちらが枝豆になります」と言ったときには、もうすでにしてそれは枝豆なのであった。悪いのは私の間ではなく、店員の間か。
 手品師としては失格である。手品師でなくて、よろしかったですね。
 あるいは、テレビを観ていてときおり耳にするものに「ばねにする」というのがある。
 ばね、である。漢字で書くと発条である。ちなみに植物ではない方のつまり簡易な動力源として使われる仕掛けの名称としてのぜんまいも、漢字では発条であるのでややこしい。
 とにかくそのばねなのである。スプリングである。びょんびょんと跳ねるあれである。そのばねに「する」のだという。どういう意味だろう。ちっともわからない。
 スポーツ選手への論評などでこの表現はしばしば使われる。
「山田選手は昨年右腕骨折という大きな怪我を負ってしまいました。しかし、彼はそれをばねにして頑張ってきました」
 個人の半生を語るような場面でも、よく使われる。
「田中さんは五年前の夏、経営していた会社が倒産、十億の負債を抱え一家は離散に追い込まれました。だが、彼はそれをばねにして頑張ってきました」
 これらの例から判ることは、どうやら「ばねにする」は「頑張る」と共に使われることが多いということだろう。それに、前の文とは「しかし」で接続するものらしい。
「パチンコで三万円すったんだって。でもさ、それをばねにして頑張れよ」
「彼は昨日すっぽんドリンクを飲みました。しかし、それをばねにして頑張るそうです」
「山本さんは子供をトランポリン教室に通わせている。しかし、子供はそれをばねに頑張っているらしい」
 と、例文を考えてみたもののどうもぴんとこない。ばねにする。難解である。
 ともあれ、私も大好きなカレーをばねに頑張ってゆきたい。使い方、これでよろしかったですか。


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1999/10/31
文責:keith中村
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