第263回 語源は判らない


 語源を探るというのはなかなか興味深いものであるから、多くの人は「これこれという語はかくかくの由来を持つ」という話を面白がる。エティモロジーあるいは語源学と呼ばれる学問もあるが、言葉の源泉に関しては何も専門家だけに限ったことではなく、誰しも興味を惹かれるのだ。だが、注意しなければならないこともある。さまざまな人が考えることだけあって、語源が間違えて解釈されることもしばしば起こりえるのだ。「ハヤシライス」は林さんが考えたという伝で、これは語源俗解とか民間語源とか呼ばれる。語源俗解は笑いに結び付くことも多く、落語の「つる」などはよく知られているし、語源というには少しずれるが「ちはやぶる」「崇徳院」などという話もある。私の祖母は「サクマ・ドロップスは舐めると酸い。あれは酢が入っているからで、だからドロップ酢というのだ」とよく言っていたが、これは明治四十一年のサクマ式ドロップス販売開始当時、ひろく喧伝された民間語源であったらしく、現代の「どこそこのハンバーガーには蚯蚓の肉が使われている」という話にも通じる都市伝説でもある。専門家でも語源俗解の過ちをおかすことがあり、定説となっている語源が後の研究によって覆されることもある。これを主題にした清水義範の短篇小説「序文」はお読みになった方も多いかと思うが、実際この小説に登場する類のトンデモ学者はかなりの数に登るらしく、彼らはしばしばと学会の観察対象になっている。語源がこのように人びとを魅了するのは、それがつまりは民族の源泉を探る作業に通じるもので、「我々はどこから来たのか」という劇的で壮大な課題であるからだろう。だがそれは反面「我々はいったい何者なのか」と人間を不安にさせるものでもあり、深夜の怪物テレビ番組「探偵!ナイトスクープ」に寄せられた「アホとバカの分布境界はどこか」という依頼をもとにこの番組のプロデューサー松本修氏が顛末を纏めた「全国アホ・バカ分布考」には、アホ・バカにあたる沖縄方言で「気がふれたもの」という良くないイメージの語源だと思われていた「プリムヌ」が実は「女に惚れて気持ちがふわふわしているもの」という微笑ましくも好ましい語源だと突き止めるくだりは人間の精神の表出として言語を捉えるうえでいささか感動的であった。
 さて、広辞苑で「語源」をひくと、「鍋は肴瓶(ナヘ)から来ている」という例が載っている。また辞書をひくまでもなく、「すきやき」は鋤の上で肉を焼いたことが始まりだ、とか、「カストリ雑誌」は粗悪な粕取り酒と同様、三号(三合)で潰れるからだ、とか、あるいはもっとあからさまな例で言えば「歯磨き」は「歯を磨くから」とか、「乳揉み」は「おっぱいをもみもみするから」だとか、言葉から容易に語源が知られるものもある。だが、それでは「歯」はなぜ「ハ」というのか、「乳」はなぜ「チチ(古くはチか)」というのか、というところまで踏みこむともう語源というのはさっぱりわからなくなってしまうのである。
 よく言われる話に「茶」を表す単語はどんな言語でもティー、テ、チャ、などとすべてtやchの音から始まる、これは茶が中国の起源でありその発音がそのまま伝わったからだ、というやつがあるが、ではなぜ「茶」は「チャ」なのかというのは判らない。また起源がまちまちであっても世界中で似た音になる例もあり、nの音はノー、ノット、ノン、ニェット、ヌ、ナイなど否定を表す語に使われるというのも有名な話だが、やはり何故nが否定なのかというのは判らない。そもそもこれには、肯定の語がnで始まる言語が存在するという反証もある。
 中学のときに英語の教師が、「火」は日本語で「ヒ」だが仏語では「フ」英語で「ファイア」などハ行で始まる例が多い、これは太古人間が火を起すときに息を吐いて酸素を供給したその音から来ている、ということを言った。当時はなるほどと思ったものだが、よく考えると英語やら仏語やらはいちばんの根っこをたどれば印欧祖語という共通祖語に行き着くから似ているのも当然であるわけで、結局この教師が言った例は大きく二つの例を出したに過ぎない。しかも「火」の音読みは「カ」であり、私は「火」を中国語では何と発音するのか知らないがまあ「カ」と近い音のはずで、ということは中国語を考えれば早くもハ行であるという例から外れてしまう。まあ、ha−kha−kaというのは近い音なのでこの点は譲るにしても、そもそもfireもfeuもハ行ではない。
 もっと基本に戻って考えてみよう。燃焼を絶やさないように酸素を送り込む場合、我々は口をどのような形状にするだろう。いうまでもなく、「蛸です。ちゅー」という形状だ。古典的な漫画の登場人物が接吻するときの形だ。「3」にも似ている。つまり、
(^3^)
 である。ほら、ちゅー、だ。
 私はかねがねからこの口唇の形状の情けなさを訴えつづけてきたものだが、今回はこれがなければ始まらない。仕方がない。で、とにかく、この口の形状で酸素を供給するわけだが、ちゅー、ではない。なんとなれば、ちゅー、というのは吸い込むときの音であるからだ。呼気の場合は同じ形で「ふー」になる。ここが重要である。重ねて言う。火を吹くときの口は「ふー」になっているのだ。
 これが「はー」ならば呼気はもっと広い範囲に拡散してしまうため、勢いが弱くなって適さない。
「ひー」ならば、「ぽかぽかぽか」と殴られている頭を防禦しながら退散するときの音である。決して火を吹く音ではない。
「へー」と発音することの恥ずかしさについては以前にも指摘した。試しに人前で「へー」と叫んでみてほしい。その恥ずかしさが実感できるはずだ。ほら、今だ。叫べ。へー。
「ほー」であなたもダッチワイフだ。
 以上の検証の末、やはり火を吹くには「ふー」しかないことが証明できた。しかし、「火」は「ヒ」「ホ」という訓みはあるが、「フ」とは訓まない。だから、「ひ」が火を吹く音というのは誤りだということが言えるのである。同様に、フランス人が「オ」の口をしながら「エ」の音を発音するなどというややこしい母音を用いて「ふぇぇ、ふぅぉー」と吹くことはあり得ぬ。ましてや、アメリカ人が、
「ふぁいあー」
 と吹くとは考えられぬのである。私が思うには、fireというのは音ではなくそのイメージから来ているのではなかろうか。私が知る限りアメリカ人が「ふぁいあー」と言うときはいつでも、いかにも
「めらめらしてます」
 というように叫ぶのだ。
「キス・オブ・ファイア」という、タンゴに歌詞を付けたスタンダードがあるが、この曲の最後は「よー・きす・おー・ふぁいあー」と叫ぶ。
 ジム・モリソンはかつて「ハートに火をつけて」で「とらいな・せった・ないろん・ふぁいあー」と叫んだ。
 最近ではスティービー・ワンダーがコーヒーの宣伝で「あにーじょ・ふぁいあー。ふぁいあー」と叫んでいる。
 恐らくアメリカ人というのは「ふぁいあー」というときには叫ばずにはいられない人種なのだろう。どいつもこいつも結構あたま悪そうである。
 まあ、「ふぁいあー」が火のイメージだといっても、叫ぶからそういう具合に聞えるだけで、たとえば、
「ぽっぽらー」
 と叫んで、これは「火」という意味だよと言われればそんな気がしてくるし、
「ひょこひょこー」
 と叫ばれても、なんだか火のような気にさせられる。
「ぼんぼらっちょー」
 なんかもかなり火である。
 何なら、
「まろでおじゃるよー」
 ですらも、両手を顔の横でひらひらさせながら叫ばれると、これはやはり火という意味ではないのか、とついつい思ってしまうから厳重な注意が必要だ。
 結局のところ、なぜfireであるのか、なぜfeuであるのか、なぜ「ヒ」であるのかは判らないのだ。つまり語源をいちばん深い根のところまで掘り下げて、何故その音になったのかというのは誰にも判らない。
 恐らくは、「なんか、気がついたらそうなっていた」のだろう。
 すべての言葉はとどのつまり「なんとなくそうなった」としか言えないのだ。
 だから、「三千円ぽっきり」というときの「ぽっきり」だって、もしかしたら「ぷっけり」になっていたかもしれない。「三千円ぷっけり」である。
 また「終わる」という言葉だって「うんこちゃん」でもよかったのかもしれない。
 まあ、判らないことをいくら論じても詮ないことではある。そんなわけでこの辺でうんこちゃん。


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1999/10/09
文責:keith中村
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