第234回 旅路の果て


 よく言われることであるが、同じ内容を表す言葉が複数存在するときには、片仮名の外来語、漢語、やまと言葉の順に格が下がる。
 有名な例は、
「アイデア、着想、思い付き」
 というやつだ。
 なにか困った問題が起こったとしよう。皆が額をつき合わせて思案している。そのときひとりがぱっと顔をあげる。そして彼は言うのだ。
「ぼくによいアイデアがあります」
 おおっ。そうか。そいつぁ素晴らしい。もう内容を聞くまでもなく一同が安堵の表情に変わるのであった。
 また、
「あの。わたくし、ひとつ着想を得たのですが」
 これもなかなかなものである。「アイデア」ほどの訴求力はないかもしれない。だが、何というか控えめで真面目、質実剛健、そんな趣きがあり、ふむ、どれどれ、聞いてみよう、という気にさせる言葉である。
 それに引き換え、
「おら、思い付いただよ」
 これはかなり駄目なんじゃないか。そもそも「おら」がいけない。何者だよ、「おら」。思い付きで喋るんじゃない、まったく。
 あるいは、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」という曲の邦題がもし「カリフォルニア旅館」だったらちょっとどういうつもりだか不安だし、「はたごカリフォルニア」だったらものすごく迂闊だと思う。
 言葉の序列というのは、そういうことになっているのだ。
 無論、あらゆる物事には例外が存在するわけで、やまと言葉、漢語、片仮名の外来語の順に格が下がるものだってないわけではない。
「旅」というのがそれだ。
 チューリップに「心の旅」という曲があるが、これがもし「心理旅行」だったら、なんだかフロイトとかユングとかそういったあれに聞こえるし、英語で「マインド・トリップ」ならば「ああ。打ってます。打ってます。いい気分です」という話になってしまうのだ。「トリップ」はまずいのである。
 もっとも旅あるいは旅行にあたる英語はトリップだけではない。トラベルだのトレックだのエクスカーションだのというのもある。ツアーもそうだ。
 この「ツアー」という言葉についてちょっと掘り下げて見たい。われわれはいったいどういうときにツアーという語を用いるのだろう。これを考察するには私が前回書いた文章が手がかりとなろう。前回の文章で私はこういうものを紹介した。
「お墓参りツアー」
 お墓参りという言葉にすでに「参る」という行動をあらわす部分が含まれているにもかからわずさらに「ツアー」が付くのである。だからといって「お墓ツアー」ではなんだか変ではあるけれど、では単なる「お墓参り」と「お墓参りツアー」はどう違うのだろう。
「お墓参り」というのは供養である。祭礼であり先祖を敬うものである。「なむー」というやつである。ところがここに「ツアー」が付加された途端、その意味合いは極限まで薄まる。そして逆に観光がてら物見遊山がてら的な色あいが濃くなる。イベント性が増すのだ。すなわち「ツアー」には本来の目的、行為の本質をぼやけさせて曖昧にする機能がある。
 この点は重要である。ツアーが付加されることでわれわれはともすれば行為の本質を見失う。ふと気づけばカメラの前でブイサインなど出しているかもしれないのだ。これはまずい。お墓でブイサインだ。もしかしたら、現像した写真に自分のものでないもう一本の手が一緒にブイサインしてるかもしれないのだ。これは怖いぞ。
「食人族を見に行こうツアー」
「地雷撤去体験ツアー」
 もしそんなものがあれば、人は喜んで参加することだろう。「ツアー」が本来の危険性を覆い隠してしまうのだ。「ツアー」はそれらをイベントと化し、祝祭空間を構築してしまう。
 ただし、人はこの「ツアー」の効果を確信犯で用いることもある。
 こういう場合だ。
「牛丼つゆだくツアー」
「カレー屋インディ探検ツアー」
 言うまでもなくつゆだくにした牛丼やら大盛りのカレーやらを「はふはふ」と食べるのはちょっと恥ずかしいことである。だが、これを「ツアー」にすることでわれわれはこの「ちょっと恥ずかしい」という感覚を回避できるようになるのだ。あくまで「そういうイベント」に参加しているというスタンスで羞恥心をやり過ごすことができるようになるのだ。
「コスプレを見に行こうツアー」
「夜の公園でカップルを窃視ツアー」
「セクシーキャバクラとはどんなところか見学ツアー」
 どんな恥ずかしいおこないでも「これはツアーなんだから」と割り切れば済まされてしまうのである。「旅の恥は掻き捨て」とはよく言ったものである。
 思えば「ツアー」という語のこの働きは、「みたいな」「ていうか」などの流行語にかなり近いものである。
「お墓参りみたいな」
「っていうかセクシーキャバクラ」
 断言することを避けるのがどうにもわれわれの文化に適合してしまうのだろう。しかし、今後ますます国際化してゆく社会にあってはきっぱりと言い切ることが美徳であるという文化を積極的に育成してゆかねばならない。
「カレー屋大好き」
「コスプレ大好き」
 こう言えないようでは真の国際人にはなれない。今われわれに与えられた課題は、如何にして隠蔽された本質を見抜くかということであろう。それを達成できたとき、われわれは本当の意味で旅の終着点にたどり着くのである。


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1999/06/20
文責:keith中村
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