第231回 もうひとつの言語的断絶


 言葉というのはもちろん移ろいゆくものであるが、では何故移ろうのかといえば、たいていは間違えることによる。すなわち歴史上のどこかの点で大きな影響力を持った間違いが発生すればその後の時代には間違いの方が正しいものを駆逐して伝えられることになってしまうのだ。では何故間違いが発生するかと言えば、これは間違いの方がなんとなく理に適っているように誤解されるからそうなってしまうことが多いのではないか。
 たとえば「独擅場(どくせんじょう)」という言葉は今ではほとんど誤用の「独壇場(どくだんじょう)」に駆逐されてしまっている。これは「ほしいままにする」という意の「擅」より花壇教壇仏壇などに使われる「壇」の方がずっと馴染みがあり、舞台の上でひとり注目を集めている印象にぴったりくるからだろう。
 最近の例で言えば、「がたい」というのがほぼ定着しつつある。もともと建物などの大きさを言った「がかい」という言葉が人間に転用されたものであるが、「体(たい)」のイメージに引っ張られて「がかい」が「がたい」になったものと思われる。日本語の乱れに物申す種のエッセイは多いけれど、私は今までこの誤用について論じているものは見たことがなく、それはつまりこの言葉が、たいていは老齢である言語的憂国の士たちの耳に届かぬほど若い人達の間のみで用いられているからなのだろう。この語については、もともとは「がかいがある」と言っていたものが人に転用されたことによって「がたいの良い」という正負のイメージをともなう語で受けるように変化していることも面白い。
 偉そうに書いているが私も学生の頃まで「しかつめらしい」を「しかめつらしい」と間違えていた。確かに鹿爪らしいときにはたいてい顰め面になっているものではあるけれど。間違いに気づいたときにはどこか決定的なところでこの誤用をやらかさなかったかと冷や汗もので、はじめてこの単語に触れたときにもし「鹿爪らしい」と漢字で書いてあれば誤解せずに済んだものを、と悔やんだものだが、だがその「鹿爪らしい」は宛て字である。
 などと鹿爪らしいことをながながと書いてしまったが、言語の乱れというのは何もパロールやランガージュとしての言語のみが抱える問題ではない。
 どうやら手話の世界がたいへんなことになっているようだ。
 たとえばこういう手話があるらしい。
「顎を前に突き出して受け口にする」
 何を表しているかというとこれだ。
「アントニオ猪木」
 これはいったいどういうことになっているのだろう。
 私じしんのことで考えれば「アントニオ猪木」という語を口にすることは一年に一度あるかないかである。確か最後に口にしたのは昨年の九月である。多くの人もそんなものだろう。だが、明らかに発語としての日本語より遙かに単語数が少ないはずの手話で、どうしてこういう単語が存在するのだろう。
 こんな単語もある。
「掌を庇のように額につける」
 意味はつまりこうだ。
「ジャイアント馬場」
「ぽう」とか「あぽう」とかそういうあれだろう。
 もちろん手話の人々の中にもプロレスファンは多いことだろうから、こういう単語が作り出されるのも不思議なことではないのかもしれない。知らないが、きっとあるのだろう。ラッシャーも、シンも、ハルク・ホーガンも。
 さて、では、これはどうだ。
「顎を前に突き出して受け口をにする。なおかつ、寄り眼になる」
 これの意味するところはこういうことである。
「加藤茶」
「ペ」とかそういったことか。
 手話では存在しない単語を表す必要に迫られたときには指文字として一文字ずつ表現するのであり、専用の単語が作られるのは、より使用頻度が高く、簡潔に表現しなければならないことが多いものである筈だ。いったい加藤茶の使用頻度はそれほど高いのだろうか。加藤茶だぞ。いいのか。
 そもそも、手話ではいくつかの代表的な名字はもともと専用の単語がつくられており、たとえば「佐々木」という姓は「背中の刀を抜き取る」という表現で、これは「佐々木小次郎」から「佐々木」となる。「加藤」もそのひとつである。
「人差し指を立てた両の握り拳を腰のあたりで横に向ける。そのまま水平に横に突き出す」
「がきデカ」のこまわり君がやる「死刑」とそっくりであるが、要するに槍を持って突いている仕草で、「槍」→「賤ヶ岳の七本槍」→「加藤清正」→「加藤」ということらしい。まあ、「槍」→「賤ヶ岳の七本槍」→「加藤嘉明」→「加藤」でも構わないだろうけど。
 これで「加藤」を表したあと「お茶」を表しても「加藤茶」になるはずだが、どうしたことかできてしまったのだ。「加藤茶」という単語ができてしまったのだ。どういうことだ、手話の人々よ。
 だいいち、これは「顔真似」であって、ちっとも手話じゃないじゃないか。
 それに、だ。花も恥じらう乙女が加藤茶と言いたくなったらどうすればよいのだ。こんな恥ずかしい顔はできないじゃないか。しかし、彼女はどうしても伝えたかった。羞恥心を棄て彼女は表現するのだった。
「きのう、テレビ、加藤茶、禿げカツラつけていた、おもしろかった」
 だが、彼女は照れたばかりにほとんど寄り眼をつくることができなかった。彼女の手話を見た人はこう解釈するのだった。
「きのう、テレビ、アントニオ猪木、禿げカツラつけていた、おもしろかった」
 それは何の番組だ。
 こういう誤解を未然に防ぐためにも、ぜひ「加藤茶」を表す単語はこう変更していただきたい。
「寝そべって片足をぴんとあげ、ストッキングを脱ぐ」
「ちょっとだけよ」とか「あんたも好きねえ」とかいうあれだ。これなら猪木と混同することはないし、なによりも花も恥じらう乙女にやってもらえると大変嬉しい。
 それにしてもたいていこういう単語は若い人が作り出すようで、やはり手話の人びとの間でも例のやつがさかんに言われているのだそうだ。
「最近の若い者の言うことは判らん」 


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1999/06/10
文責:keith中村
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