第229回 それは夕立のように


 それはいつもいきなりやってくる。
 それは心裡の暗黒面といってもよいかもしれない。
 たとえば、「嵐が丘」。有名な小説だ。
 この小説に次のようなくだりがある。ネリーという登場人物が屋敷の手前でヘアトンという子供と出逢うという一節だ。どうしたことかヘアトンはネリーに罵声を浴びせかける。ネリーはポケットから蜜柑をひとつとり出すと子供にそれを与え、さらにもうひとつとり出した蜜柑を頭上に掲げながら訊く。
「誰がそんな言葉をあんたに教えたの。副司教さん?」
 これに答えて子供が言う。
「副司教なんぞ糞喰らえ! お前も糞喰らえ! 蜜柑をおくれよう」
 ここで、読んでいた私はわからなくなってしまうのだった。
 ネリーという登場人物はどうしてポケットに蜜柑を入れていたのか。人はあまりポケットに蜜柑を入れぬものではないのか。蜜柑というのはややひしゃげてはいるが球形をしているから、あんなものをポケットに入れるとポケットが膨らんでしまい、ちょっとどうかというような間の抜けた格好になってしまうのだ。しかもこのくだりを読む限りネリーは蜜柑をふたつとり出している。蜜柑をふたつもポケットに入れているのはかなり尋常ではない。本文では触れられていないのでわからないのだが、これらの蜜柑は左右のポケットにひとつづつ入っていたのか、それとも片方に二つ入っていたのか。どちらにしてもかなり奇妙な様子である。
 しかも、もし右ポケットにふたつとも抛りこんでいた場合、重心が右に傾いてしまいはしないだろうか。ネリーはまっすぐに歩いているつもりでも、ゆるやかな円弧を描いてしまうのだ。十分に広い空間があればネリーはぐるぐると右周りの円周上を移動することになり、いつまでたっても屋敷にはたどり着けないのだった。
 いや、そんなことはどうでもいいのだ。所詮瑣末的なことである。
 私がわからなくなってしまうのはヘアトンのほうである。「糞喰らえ」は原文では 'damn' となっており、これは時代背景を考えるとかなりものすごい言葉だろうが、そんな悪態をついている子供が次の瞬間「蜜柑をおくれよう」と言うのだ。恐らくヘアトンは悪罵を続けるうち、ふとネリーの持つ蜜柑に意識が移ったのだ。彼は思ったことだろう。
「あ。蜜柑だ」
 次の瞬間には彼の口は半ば無意識に動くのだった。
「蜜柑をおくれよう」
 私にはこういう意識活動の状態遷移が興味深い。
 どうしたことか人間の心はこのようにいきなり別の方向に飛んでしまうことがあるのだ。本人の意志とはまったく無縁に突然発生する。あたかも夕立のようで、予測もつかない。
 学生時代に、友人が失恋をしたというのでみんなで慰めに行ったことがある。
「まあ、忘れちまおうや」
 そんなことを言いながら部屋に持ち込んだ酒を飲んでいたのだが、男泣きに泣いていた友人はふと立ち上がると部屋の隅にあるテレビをつけた。
 何ごとかと思い「どうした」と問うと、彼は答えた。
「サザエさんの時間だから」
 こんなときにサザエさんもないじゃないか、と思うのだが、彼は時計を見て思ってしまったのだろう。
「あ。はじまるよ」
 一般に我々は教育を受ける中で、集団生活における規則を学ぶ。したいことをすぐそのまま行動に移してはいけないという上位自我の抑止力が形成されるのである。だから、葬式で笑いだしたくなっても堪えることができるし、会議中に用足しにいきたくなっても我慢しようとする。
 しかし、たとえば眠っても眠ってもまだ眠い、というような追い詰められた状況になると、この上位自我の箍が緩んでしまう。
 これも学生時代のことだが、二日ほどぶっつづけで麻雀をしたことがある。四人とも眠くなるとそのまま仮眠をとり、またむっくり起きだすと続ける。どうしてそんな愚かなことをやったかというと、まあ若さとはそういうものだろう。
 何度目かの仮眠から眼醒め、麻雀を続けているうち、ひとりが急に立ちあがり、部屋を出ていった。
「どこ行く」と問いかけた私たちに彼は、
「桃罐食べたい」
 そう答えると出ていった。
 何だかよくわからないことになっていたのだが、三人では麻雀を続けられない。仕方がないから中断してテレビを観ているとそのうち出ていった男がコンビニエンス・ストアの袋を提げて戻ってきた。
 袋の中には桃罐ばかり八つも入っていた。
「何だよ、これ」
 そう訊ねると彼はぼんやりした顔でじっと何事か考えていたが、やがて口を開いた。
「いや。何か。とりあえず」
 そんなふうに人は時として上位自我の抑圧のかからない行動を取ってしまうものなのだった。
 だが、もっと驚くべきことはこの社会の中にはそういった抑止力になる上位自我をほとんど持っていない人間もいるということだ。思ったとおりの行動を取り、思ったとおりのことを口にしてしまう人間も少なからずいるのだ。
 そういう人間が、外人に道を訊ねられたとする。
「スミマセーン。ちょといいデスカ」
「おおお。外人だ。外人だ」
「郵便局はどこデスカ」
「すげえよ。目が青いよ。うわあ。真っ青だよー」
「郵便局どこデスカ」
「ひゃああああ。鼻高っけえ。鼻高いよー」
「アノ。郵便局」
「睫毛まで金髪だよお。ちくしょお。すげえよ。すご過ぎるよ。負けたよ。俺は負けた」
 何も勝ち負けを決めなくてもいいと思う。
 この社会にはいろいろな不文律があり、次のこともそういったもののひとつである。
「あからさまにかつらを付けている人はそうっとしておいてあげる」
 だが、上位自我の弱い人はそんな不文律、知ったこっちゃないのである。電車で前の座席に座った人に指さして叫ぶのだ。
「わあ。かつらだ。かつらだよ。しかもちょっとずれてるよ。すげえよ。こんなずれ方するなんて、すご過ぎるよ。真似できねえよ。ちきしょう。負けたよ。完敗だよ」
 やっぱり負けてしまうのだった。
 あるいはこんな人も困ってしまう。
「上位自我の箍の緩んだ父親」
 家族でテレビドラマを見ているとき、やにわにベッドシーンが始まる。父親は口を開くのだった。
「おおお。すごいよ。やってるよ。やってる。うわ。乳、丸見えだよ。すごいよ。いい形してやがんなあ。母さんとは大違いだよ。うわあ。乳が揺れてるよ。ちきしょう。ゆらゆらしてやがるよ。ひゃあ。負けたよ。あの乳にゃあ、父負ける、だよ」
 勝負してしまう上、うまくない駄洒落まで言ってしまうのだ。
 さらには「上位自我の箍の緩んだ神父」も困りものだ。
「それでは誓いの言葉です。汝、新郎は……ひゃああ。この新郎、ちんちくりんだよ。すげえよ。まるでミクロマンだよ。小さ過ぎるよ。わはあ。しかも新婦は、すげえよ、すげえ不細工だよ。不細工が服着て歩いているよ。お化けだよ、これじゃ。とんでもねえよ。ちきしょう。勝ったよ。俺は初めて勝ったよ。主よ、ありがとう」
 勝ってみたりするのだった。
 そんなふうな人ばかりになると、この社会は崩壊してしまうかもしれない。
 だが、常にひとつの時代が終焉を迎えることで新しい時代は生まれてきたのだ。
「昨日は会社にきたくなかったから、寄席に行って落語を聞いてました。ちなみに負けました」
 そんなよくわからない言い訳が通用するようになるかもしれない。
 上位自我のない時代。
 そんなのも、ちょっと悪くない。


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1999/05/31
文責:keith中村
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