第228回 ラシドの歌


 何が困るといってドレミの歌だ。
 もともと「サウンド・オブ・ミュージック」の挿入歌であるところの「ドレミの歌」である。
 ご存じない方のために書いておくと、つまりこういう歌詞だ。
「ドは土人のド。レはレイプのレ。ミは未開のミ。ファはファックのファ」
 これは嘘である。
 ほんとはもちろん皆さんご存じの「ドレミの歌」であるが、あれを歌うときに困ってしまうのだ。
「ドはドーナツのド」
 とひとまず歌いはじめてから「あ、キーが高い」と気づいたとしよう。このままでは「シは幸せよ」の「よ」が出ないではないか。裏声になってしまうかもしれない。みんな知っていることだが、裏声は格好が悪い。裏声は恥ずかしい。どんな音でも裏声になっただけで恥ずかしいのだが、中でもやはり序列があり、たとえば「が」などは比較的ましな方である。
「がー」
 ほら。許容範囲だ。
「めー」
 これもいいだろう。
「きー」
 これはいけない。
「ぽー」
 もっといけない。
「へー」
 そんなこと言うのはどいつだ。
 そんな中でも「よ」はかなりひどいと言わざるを得ない。
「よー」
 これは地声でもかなり恥ずかしい。いわんや今や我々は裏声になっているのだ。やってみよう。
「よー」
 ほら。ものすごい恥ずかしさだ。恥ずかし過ぎる。いい大人のすることではない。断じて、ない。
 しかも、ここで忘れてはならぬのは、「よ」だけ言えばよいのではないということだ。
「しあわせヨー」
 何だそれは。脳味噌、大丈夫か。
「しあわせ」まではいけるのだが「よー」でひっくり返ってしまうのだ。何が幸せよ、だ。そりゃあんたは幸せだろう。これではまるっきり極楽野郎ではないか。
 それではこの危険をいかに回避するかという話になるのだが、解決法はひとつだけある。それはキーを下げること。そう。一音半ほど下げてAのキーあたりで歌いはじめればよろしい。
「ドはドーナツのド」
 大丈夫だ。最後まで歌ってみよう。
「シは幸せよー」
 ほら。何てことはない。ちょっと心配になって「よ」が小声にはなったが、大丈夫ちゃんと歌えた。
 と、まあ長々と説明してしまったが、私が困るのはそういうときだ。おかしい、ということに気づいてしまうのだ。
「ドはドーナツのド」
 これはおかしい。確かにもともとの旋律は「ドレミドミドミ」であるからこれでいいのだが。今、我々は「しあわせヨー」を避けるためにキーを落としたのだ。Aのキーになっているのだ。ということは歌いだしの音は「ラ」に変わったのだから、正しいのはこうだろう。
「ラは喇叭のラ」
 やや字数が足りない気もするが、うまくフェイクすれば胡麻化せる範囲ではある。ミック・ジャガーになったつもりで頑張ってほしい。
 次の二小節はこうだ。
「シは幸せよ」
 なかなかよろしい。これだけ音が低いうちに「よー」を克服してしまえるのだ。こいつは本当に幸せよ。
 先へ進もう。ラ、シ、と来たから次はもちろん、
「ドはドーナツのド」
 と思うだろう。だが、違うのだ。現在我々が歌っている音階はAメジャーすなわちイ長調である。残念なことにイ長調では「ド」は出てこない。全音全音のインターバルで進むと次はドのシャープなのだ。
 ということは、次の二小節は、こうなるべきだ。
「ドシャープは何何のドシャープ」
 かなりの字余りではあるが、うまくフェイクすれば胡麻化せる範囲であろう。ボブ・ディランになったつもりで頑張っていこう。
 だが、ここで私は頭を抱えてしまうのだった。「ドシャープ」などという音からはじまる単語はいったい存在するのだろうか。
 辞書をひいてみよう。
 ……駄目だ。やはり、ない。似た言葉を探すと「ドシャンベ」というのがあった。意味は、と見ると「タジク共和国の首都」となっていた。何だか知らないが、世界は広いということだろう。
「ドシャープはドシャンベのドシャープ」
 よく判らない歌になってしまうのだった。しかも折角ドシャンベにご登場願っても、この音階ではこのあとファのシャープとソのシャープが控えているのだ。もう広辞苑では手におえない。お手上げだ、新村出。
 根本的に間違っていたのだ。長調で半音階を使わずに済むのはこの歌の本来のキーであるところのCメジャー、ハ長調のみだったのだ。こんな対処療法ではドレミの歌の呪縛からは到底逃れることなどできなかったのだ。
 なんということだ。恐るべし、ジュリー・アンドリュース。
 そんなわけで、ドレミの歌は困るのであった。
 だが、あれこれ考えるうちに私は新たな解決法をあみ出した。確かに半音階を使わずに済むのはハ長調だけであるが、音楽の世界には平行調というのがあったのだ。
「ドレミファソラシド」
 これをそっくりそのまま一音半下から始める。
「ラシドレミファソラ」
 これはイ短調の音階である。この際、メロディック・マイナーとかハーモニック・マイナーとかややこしいことは抜きにするからその辺り突っこみたい人も目を瞑っていただきたい。
 よし。これだ。先程はイ長調で考えたからいけなかったのだ。発想の転換だ。そのままずらせば良かったのだ。これが本当のパラダイム・シフトだ。
 さあ。これで行ってみよう。まずはAマイナーのコードで。
「ラは喇叭のラ」ここはミック・ジャガーだぞ。よし。
 次はE7のコードだな。
「シは幸せよ」
 わああ。いかんいかん。哭きのドミナント・セブンスだ。なんて悲しい旋律なんだ。谷村新司か、お前は。
 ちっとも「幸せよ」ではないのだった。
 恐るべし、ペギー葉山。


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1999/05/30
文責:keith中村
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