第226回 条件反射


 条件反射は恐ろしい。
 電車に乗っていると向かいの席の女子大生らしい二人連れが何やら条件反射について喋っていた。
「でさ。あの犬の名前なんだっけ」
「ええっと。……あっ。パブロンだ」
「そっか。パブロンだよね」
 だよね、ではない。
 この会話には致命的な間違いが二つ含まれている。ひとつはパブロンは風邪薬の商標であり、正解はパブロフであること。そして何よりもパブロフは犬ではないこと。
 だが、この会話の最も恐ろしいところは、この女子学生たちの誤謬が更なる条件反射となり、この会話を聞いていた私に伝播するということである。
 今後、私は犬に食餌を与えるときベルを鳴らす例の実験のことを考えるたびにパブロンという風邪薬を連想してしまうだろう。
「犬を使った条件反射の実験でさ」
 誰かがそういうと、私はきっと言ってしまうに違いないのだ。
「ああ。パブロン。あ、いやいや。パブロフ」
 それだけならいいのだが、相手が更に混乱させる人だったらば。
「パブロンは違うよ。だって、あれは、ほら」彼は間違えて歌いだしてしまうかもしれない。「くしゃあみ三回」
「それはルルだ」
 こうなってしまうともういけない。私は「犬」と聞くだけで「ルル」を連想してしまうそんな人間に成り果ててしまうのであった。
 このような連想を条件反射と言ってよいものかどうかは知らぬが、ともかく我々は人生のさまざまな場面でかようにも無用な条件反射を刷り込まれ、無意味な連想をしてしまう人に育ってゆくのだった。
 私のある知人は高校の時に、不良に憧れたのだそうだ。その知人はどうすれば不良になれるかあれこれ考えた上で、こういう結論に行き当たった。
「酒、煙草、女をやりまくるのだ」
 やりまくるというのもちょっとどうかしていると思うが、とにかくそう考えた知人はこっそり酒と煙草を買い込んできた。だがしかし、三番目の「女」だけは買うことはできない。いや、実際には売っているところもそりゃあるだろうけれど、それにしても高校生だった知人に購うことができる金額ではなかったろうし、そこで彼はコンビニエンス・ストアで女子の人の裸んぼうがいっぱい掲載された雑誌を買ってきた。そして、その雑誌を見ながら酒を飲んで煙草を吹かした。
「ああ。俺は今不良です」
 そう思ったのだそうだ。
 そういう生活を続けた彼は、やがて酒煙草女子の人の裸んぼうをひとまとまりで捉える人間になってしまった。
 その結果、今では知人は酒の席で女子の人がいれば、ついこう言ってしまうようになった。
「なあ。姐ちゃん。裸見せてえな」
 かなり困った人間であると言わざるをえない。言わざるをえない、というほどのこともないが。
 バイオテクノロジーという学問がある。遺伝子を操作してうんぬん、種子なしの西瓜を作ったり、クローンの羊を作ったりするあれである。私が初めてこういったものに触れたのは幼稚園の時に動物園でみたレオポンという動物であった。豹とライオンの合いの子である。私が見たレオポンはどうしたことか、こっちに尻を向けて、うんこをぼとぼと落としていた。
 だから、私は今でもバイオテクノロジーというとつい連想してしまう。
「あ。うんこぼとぼと」
 困ったことである。
 ところで、宇多田ヒカルという人がいるらしい。
 よく知らないが売れている歌手のようで、どこで聞いたか忘れたが私がこの人について知っている情報はひとつだけである。
「宇多田ヒカルは藤圭子の娘」
 だからどうだということもなかろうが、しかし、誰かが「宇多田ヒカルってのがね」というとついつい反射的に言ってしまうのだ。
「ああ。藤圭子の娘ね」
 言ったから何がどうなるというものでもない。しかも、私が話す相手もたいてい私と同年輩かそれ以上なので、芸能界のことには疎い。
「宇多田ヒカルってのがいるね」
「ああ。藤圭子の娘ね」
「うん。藤圭子の娘らしいね」
「売れてるんだってね」
「うん。売れてるんだってね」
「藤圭子の娘だね」
「そうだねえ。売れてるんだねえ」
「売れてるねえ」
 埒もない会話にしかならぬのだ。これもなかなか困ったことである。
 同じようなものに「小沢健二は小沢征爾の甥」というものもある。
 あるいは、駅のホームで列車を待っているとき、隣りのベンチに座った老人二人の会話が耳に入る。
「こないだ、佐藤さんが牛蒡を食べてて歯が抜けたそうです」
「へえ。気をつけないと」
 聞かなければよかった。そう思っても後の祭りである。これ以降牛蒡を食べるたびに思ってしまうのだ。
「ああ。佐藤さんはこれで歯が抜けたんだなあ」
「気をつけなくっちゃ」
 だいたいその佐藤さんという人も知らぬ癖に、そう思ってしまうのだ。思わざるを得ないのだ。それもこれも佐藤が悪いのだ。
 かくして、人はだんだんとパブロフの犬に近付いてゆくのだった。
 それにしても、レオポンとは改めて考えると可愛い名前である。やはり「ポン」がその秘訣か。
 レオポン。
 そして佐藤ポン。 


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1999/05/16
文責:keith中村
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