第224回 何でも持っている人


 私はほとんど物を持ち歩かない。常に身につけているものは財布と煙草くらいで、腕時計だってしない。腕時計というのはなければないで済ませることができるもので、前に街中を注意深く観察しながら歩いたことがあったが、十分ほど歩くうちにも十以上の時計が眼に入った。
 時計に限らずたいていのものは特に持ち歩かずとも困ることはない。電車に乗るには、車中で時間をつぶすための本が入り用になるが、これも文庫本を一冊ポケットに入れておけば大丈夫だ。
 何より私には鞄を持ち歩くという行為が面倒でしようがない。少なくとも片手をそれに塞がれることになるし、そもそもぼんやりしている私だからうっかり鞄をどこかに置き忘れてしまうのも不安だ。以前、外出するときに鞄に推理小説を抛りこんで持っていったのだが、案の定帰ってきてみると手ぶらだった。どこで忘れたかとんと見当がつかぬ。抛りこんでいた小説はあと二十ページほどで読み終わるところだったのだが、おかげであの小説の犯人を私は未だに知らずにいる。あの執事が怪しいと思うのだけれど。
 反面、世の中には何でも持っている人というのもいる。
 たとえばおろしたての服を着て出掛けているとき、ふと人から裾の仕立て糸がまだついたままであると指摘されることがある。こんなとき、何でも持っている人はいうのだ。
「あ。ちょっと待って」
 確かこのへんに、などと言いながら鞄をごそごそ探ったかと思うと小さな鋏をとり出して手渡してくれるのだ。
 あるいは、木製の手摺りに掴まっているときに、うっかり棘をさしてしまったとき。
「あ。ちょっと待って」
 ええと、あったよなあ、などと言いながら何でも持っている人は鞄をごそごそ探り、毛抜きをとり出すのであった。無事棘を引き抜き、毛抜きを返そうとして何でも持っている人を見ると、その人は今度はにこにこしながら絆創膏を手渡してくれるのであった。
 何でも持っている人はすごい。
「頭が痛くってね」
 何でも持っている人にそんなことをいうと、すかさず鞄から頭痛薬をとり出してくれたりもするのだ。
 公園を散歩しているときに、小さな野良の仔猫がにゃあにゃあとじゃれついてきたとしよう。
「ああ、可愛いでしゅねー。ちょっと待ってくだしゃいねー」
 何でも持っている人は仔猫にそう言ったかと思うと、鞄の中からキャットフードの罐詰をとり出すのだった。
 重ねて言おう。
 何でも持っている人はすごい。
 何でも持っている人の鞄はいったいどんな仕組みになっているのだろう。
 ところで、ややこしいことに世間には「何でも持っている人にとてもよく似た人」も存在する。
 私が学生の頃の友人なのだが、彼は誰かが「しょうがないなあ」というとすかさず鞄から生姜をとり出して「いや、しょうがあるよ」という人間だった。これは「何でも持っている人」ではなく「いつも生姜を持っている人」である。
 これも私の友人なのだが、いつも鞄にブロンという咳止め薬を携帯している人間がいる。彼もまた「何でも持っている人」ではなく「ブロン中毒の人」なのだった。
 更には、何でも持っている人にも二通りあり、それは「意図せず何でも持っている人」と「狙って何でも持っている人」である。
「狙って何でも持っている人」はすぐ判る。
「よくこんなもの持ってたね」というと、にやりと笑いながら「いやあ、こんなこともあろうかと思ってね」と勝ち誇った表情を見せるからだ。彼らは「あまり持ち歩かない筈のものを敢えて持ち歩くこと」で感嘆や笑いを勝ち取ろうとしているのである。
 この手の「何でも持っている人」はそれほどすごくない。彼らは笑いをとるためならばサムソナイトふたつ分の荷物を持ち歩くことすら厭わないからである。
 本当にすごいのは「意図せず何でも持っている人」である。
「意図せず何でも持っている人」はたいていぼんやりした昼行燈のような人格の持ち主である。「よくこんなの持ってたなあ」と感心すると、「いや。何か。あったから」とよく判らない返事をする。
 何か、あったから、ではないと思うのだが、その辺りが「意図せず何でも持っている人」の懐の深いところであるのかもしれない。
 私は思う。
 意図せず何でも持っている人は、ものすごい。
 間違えやすいことだが、「何でも持っている人」は「用意がいい人」とも違う。
「用意がいい人」は目前に控える行事に対してあらゆる事態を想定し、その上で必要と思われる品々を準備するのである。遠足だといっては万が一の嘔吐に備えてビニル袋を数枚準備する。あれば何かと便利だというので、芯を抜いてぺしゃんこにしたトイレットペーパーを持参する。折り畳み傘を鞄の底に忍ばせる。何故か財布にコンドームをはさみ込む。用意がいい人の持ち物には合理性がある。すなわち、これがあればこういう際に役立つというのが明確になっているのだ。
 だが、何でも持っている人の持ち物には整合性がない。なにしろ本人が「いや。何か。あったから」というくらいなのだ。どうしてそこにあるのか本人さえよく判っていないのだ。
 たとえば。何でも持っている人の鞄からは出てくるのだ。メロンパンの匂いのする消しゴムとキッチンタイマーと紙やすりが。その取り合わせはいったい何だ。三題噺か。
 何でも持っている人の鞄からは出てくるのだ。ゴム手袋とサイコロと両面テープが。何だそれは。なぞなぞか。
 前にものすごく混んでいる飲み屋に入ったときのこと。注文どおりに酒と料理が運ばれてきたが、忙しくてつい忘れられたのか箸が添えてない。店員を呼ぶのだが、ばたばた慌ただしそうでなかなか来てくれない。ところが居合わせたひとりが「何でも持っている人」だったのだ。彼はふと何かに思い当たったような顔になって鞄を開けると、中から人数分の割り箸をとり出した。
「何でこんなもの持ち歩いてるの」
 料理を頬張りながら我々が発したその問いかけに何でも持っている人は、やや照れながら「いや。何か」と何でも持っている人らしい返答をした後ごにょごにょと「お母さんがね……」と口の中で呟いた。
 なるほど。そうだったのか。
 何でも持っている人よ。秘訣はお母さんにあったのですね。


新着順一覧 − 日付順一覧 − 前を読む − 次を読む − トップページ


1999/05/11
文責:keith中村
webmaster@sorekika.com