第223回 近視ということ


 目が悪いというのは、困ったことである。どれくらい困ったことかというと、頭が悪いことよりは酷いが、性格が悪いことによりはちょっとましかな、というくらい困ったことである。目が悪いとものがぼんやりとしか見えない。
 私も目が悪い。頭と性格もやはり悪いのだが、それに加えて目が悪い。
 以前、四人くらいで喫茶店に入ったことがある。たまたま四人とも眼鏡をかかせない強度の近視であった。さて、ご存知のようにある種の人間は喫茶店のお手拭きで顔を拭く。その時もひとりがそういう種類の人間だったのだが、彼は眼鏡を外してごしごし顔を拭いたあと何を思ったか両の目尻を人差し指で引っ張って言った。
「あっ。こうするとよく見える」
 彼が何を言っているのかよくわからなかったので、残りの三人もとりあえず眼鏡を外して彼と同じようにやってみた。なるほど。よく見えるのである。近視というのは要するに眼球のレンズをひっぱる筋肉の力が衰えることが原因であるため、目尻を引っ張って眼球に圧力を加えてやると物が見えやすくなるのである。そうやって四人で目尻を引っ張っていろんな方向を見ているところへウェイトレスが飲み物を運んできた。
 彼女は我々を見ると、
「ひい」
 まあ、大のおとなが四人揃いも揃って狐みたいな顔を作っていたのだから、ウェイトレスにしてみればちょっとかなりなことだったろうと反省している。しかし、そのように眼鏡がなくても物をはっきりみる術をしっておくといざというときに役に立つかもしれない。
 目が悪い人間がはっきりものを見るためにはもうひとつ方法がある。目の仕組みというのはカメラと同じようなものであるから、被写界深度を上げてやればピントは合いやすくなるのである。つまり絞りをぐっと絞り込んで入ってくる光を少なくすればよい。これを実現する方法に五円玉の穴から覗くというのがある。五円玉の穴は小さいからそこから向こうを見れば入ってくる光がぐっと押さえられて近視であってもなかなかはっきりと見えるようになるのだ。これは結構使える方法ではないか。五円硬貨二枚と糸さえあればたった十円で簡易眼鏡が作れる。たった十円である。素晴らしいではないか。そんな眼鏡、格好悪いから厭だという人もいるかもしれないが、そういう人は五十円玉でやればよいだろう。ちょっと贅沢な気分も味わえるはずだ。
 さて、目が悪いというのは文字どおり目の機能が劣っているわけで、目が悪くない人には解からぬ苦労もある。
 近視の人間が眼鏡をせず裸眼でいると、さきに書いた被写界深度をあげる目的で無意識のうちに目を細めてしまう。目付きが悪くなるのだ。いきおいやくざなどに絡まれやすくなる。もちろん、いちばんやくざに絡まれやすいのは「わけもなく顔だけ恐い人」であるのはご承知のことだろうが、裸眼でいる近視はその次あたりに位置するのだ。
 あるいは、よく聞かれる話にこんなものがある。
 道を歩いていると、通りの向こう側にある建物のウィンドウから自分に向かって大きく左右に手を振っている人がいる。遠くて誰だか判別がつかなかったが、とりあえずこちらも大きく手を振りながら近づいてみると、知り合いではなく、ただ窓を拭いている人だった。
 あるいはこんな話もある。
 道を歩いていると、つむじ風が吹き、落ちていたスーパーの白いポリ袋が路上でくるくる舞った。ちょうど通りかかった二人の女子高生がそのポリ袋を見るなり「きゃあ、可愛い仔犬」といいながら追いかけはじめた。
 半ば都市伝説化している有名な挿話ではあるが、どちらも目が悪いゆえに降りかかる不幸の象徴的なものである。
 目が悪いというのはこのような危険と常に背中合わせにあることだと思ってよいだろう。
 ところで、小学校や中学校では身体測定の日に併せて視力検査をやる。お玉で片目を隠しておいて「コナルカロニフ」などと妙な言葉の書かれた検査表を読ませる例のやつである。教師が文字を示していくつか読ませたあと、「1.5」「0.7」などと視力を記録表に書き込んでゆく。学級にひとりや二人は極端に目が悪い子供がいるもので、教師が示した文字にことごとく「読めません」と答えてゆく。いちばん上の大きな文字も「読めません」となると、教師はその生徒を一歩前に進ませる。で、再びいちばん上の文字を示す。読めなければ更に一歩前へ進ませて同じことをさせる。何歩か近付いてとうとう読めると、これは全国的にそうなのか私が通った学校のある地域だけがそうなのか判らないのだが、教師は記録表に「2m」などと書くのだった。検査表から生徒の立っている位置までの距離である。
 なんというか、かなり不条理な仕組みではないか。「0.8」「1.5」「1.0」など本来単位があるのか知らないがとにかくあの視力の数値が記録されたなかにそこだけメートル法である。譬えて言うならば「あなたは果物では何が好きですか」という質問に「人力車」と答えるくらいの不条理である。譬えても仕方がないが。
 ともかくそこだけ視力の枠を逸脱した二メートルという数字。近視の子供はそれを見て、他の子供より少しだけはやく世の中の不条理を実感し、他の子供より少しだけ大人に近づくのだ。
 惜しむらくはそういう子供もやがてスーパーのポリ袋を追いかける大人に育つことか。


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1999/04/30
文責:keith中村
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