第218回 語源の楽しみ


 外来語には感嘆度とでもいうべき種類の属性があるのではなかろうかと思うのだ。
 感嘆度というのはつまり、「これこれは実は外来語なんだよ」と聞いたときにどれだけ意外性を感じて驚くことができるかという程度のことである。
 たとえば「さぼる」という動詞が「サボテール」や「サボタージュ」を元につくられたことはあまりにも有名なので、「さぼる、って実は外国語から来てるんだ」と人に教えても憮然として「そんなの知ってらあ」と返されるのが関の山であり、こういう語の感嘆度は限りなく低い。
「アジテート」からの「あじる」然り、「ダブル」からの「だぶる」然り。
 いったいに、ここ一世紀以内にできたこの手の語の感嘆度は低い。これは、元になっている単語そのものも既に日本語の語彙に吸収されており、知られている度合が高いので、誰に教えられずとも類推できてしまうからだろう。
 ではぐっと古い時代の外来語では感嘆度は増えるのかとなれば、案外そうでもない。
「風雨というのは実は外来語なんだ」などと言っても、「当たり前じゃないか」ということになってしまう。古い時代の外来語というとほとんどが漢語つまり中国語であるのは当然であるからだ。では漢語以外なら感嘆度は高いかというと、たとえば「袈裟という単語はサンスクリット語のカサーヤである」ということを聞いても「まあ、仏教用語はたいていそうなんだろうなあ」という認識が漠然と存在するわけでやはり意外性に欠ける。
 いちばん感嘆度の高いのはやはり、封建時代に流入し漢字を宛てられて定着した西洋語だろう。誰しも金平糖や天麩羅がポルトガル語だと初めて聞かされたときには驚いたはずだ。
 この手の単語は案外多い。
 飛竜頭。襦袢。如雨露。
 これらはすべてポルトガル語であるが、漢字の宛て方が非常に巧い。
「ピンからキリまで」のピンが一、キリが十を表すというのはよく知られているが、このうち、ピンはポルトガル語で「点」を意味し賽ころの一の目が点であることに由来しており、またキリはやはりポルトガル語の「クルス」、十字架だから十なのである。
 朝鮮語がもとになっている単語もある。明太子の「めんたい」はスケソウダラを意味する朝鮮語であるし、鵲や鶴も朝鮮語が語源ではないかとする説もある。股引の「ぱっち」もそうである。
 先に、サンスクリット語は感嘆度が低いとしたが、仏教用語以外ならそうでもなく、「瓦」は「カパーラ」、「あばた」は「アブータ」、それぞれサンスクリット語である。
 それから、いちばん意外性のない中国語漢語ではあるが、「ペケ」というのは漢字を宛てないのでこれが中国語の「不可」だというのはやや感嘆度が高いかもしれない。
 私がいちばん感嘆したのは「益荒男」であり、非常に古くからあるこの言葉はなんと英語がもとになっている。「マッスル」すなわち筋肉がその語源であり、たしかに筋骨隆々の大夫らしい語源である。
 ところで語源の話になると、フォーク・エティモロジーつまり民間語源なるものに気をつけなければならない。民間語源というのはたとえば「ハヤシライス」は林さんが作ったからそういうのだ、というような間違った通説であるのだが、さて「ロハ」という俗語がある。一般には「只」を崩してそう読むということになっており、私もずっとそう思ってきたのだがきちんと調べてみると実はそうではなかった。ドイツのザクセン地方に「ロッハー」という方言があるらしいのだが、この語は「気前がよく何でも気軽にふるまう人」という意味で、実はロハの語源はこっちであるのだ。同じく、ホルモン焼きのホルモンが、分泌液のことではなく、あの材料にする臓器をもともと食用にせず捨てていたため大阪弁の「抛るもん」が語源であるというのもかなり知られたことであるが、これもやはり民間語源であり、正しくはロシアのキエフあたりの方言「フォルモヌ」が語源である。この語の意味は「こまかく切る」で、ホルモン焼きは臓器を細かく切ってやくからそういうのだそうだ。
 逆に日本語が他国の言葉のもとになっている例もある。有名な例では「スシ」「ツナミ」などがそのまま英語になっているし、真珠の計量に用いる国際単位は「モンメ」である。類黒人種群を表すニグロは「似黒」である。他に意外なところでは「目盛」は実は英語のメモリーの語源である。これは、同じ派生の「メモ」が今度は「メモる」としてまた逆輸入されている点がなかなか興味深い。
 さて、今回は外来語と語源ということについてあれこれ書いた。ご存じでなかった事実も多かろうと思うが、くれぐれもこれらの蘊蓄を人に語るときには気をつけていただきたい。書いているのは他ならぬ私なのだから。


新着順一覧 − 日付順一覧 − 前を読む − 次を読む − トップページ


1999/04/15
文責:keith中村
webmaster@sorekika.com