第212回 嘘も方便


 一般に嘘をつくのはよくないこととされており、嘘を戒める諺や警句は洋の東西を問わず多く存在する。確かに嘘は衆人の心を惑わし不安にさせるのでつかぬほうがよいものであろう。しかし嘘が必要であるという局面が少なからず存在することもまた事実で、社会的な立場や職業によっては嘘をつかざるを得ないこともあるのだ。
 たとえば役者俳優という職業は、自分ではない他人を演じるわけで、その意味では舞台の上銀幕の中では恒常的に嘘をつきとおさねばならない。通常嘘をつくのは悪人であるということになっているが、俳優の場合は演技すなわち嘘がうまければうまいほど評価され、嘘すなわち演技の下手なものは大根役者などといわれて蔑まれることになる。観客観衆は上手な嘘を要求するのだ。
 泣くという演技が必要な場合、役者はあらゆる手段でもって泣く努力をする。映画やドラマのように断片のフィルムをつないでゆく場合にはある程度悲しい顔さえできれば撮影直前に目薬をさして泣いているように見せることもできるし、悲しい表情からやがて落涙するまでをワンカットで撮らねばならずしかし役者にその技量がないというような場合であっても最近の高度なコンピュータグラフィックスを用いればこれは難なく実現できてしまう。しかも、涙を目薬で胡麻化したことが裏話として世間に出まわった場合には「あの涙、実は目薬だったんだって」「へえ。興ざめだねえ」などと評価を著しく低下させてしまうが、コンピュータグラフィックスであったことが世間に知れた場合には「あの涙、実はコンピュータグラフィックスだったんだって」「へえ。気づかなかった。最近の技術はすごいなあ」と逆に評価が高まるという効果さえ生じる。コンピュータは日進月歩の世界であるから、そのうち涙どころかあらゆるものを合成できてしまうようになるだろう。実際、音楽ではものすごい勢いで生楽器から電子楽器への以降が進んでおり、流行歌ではギター以外のパートはすべてコンピュータであることだって珍しくなくなっている。ギターだけは表現力が豊か過ぎてなかなか量子化できず、人間が弾いているのだ。そのうち、「あの田中邦衛、実は口もと以外コンピュータグラフィックスだったんだって」「へえ。気づかなかった。最近の技術はすごいなあ」ということになるかもしれない。田中邦衛の口もとだけは表現力が豊か過ぎてなかなか量子化できず、人間がやっているのだ。
 ところで、映画ならそれでもよいが舞台ではコンピュータでの合成という技術は使えない。どうしても生身の人間が演じなければはじまらないのだ。そこで、容易に泣くことができぬ役者は涙を出そうと四苦八苦することになる。たとえばある役者は舞台の袖に箪笥を用意しておくのだ。出番の前にその箪笥の角にこつんと足の小指をぶつけるのだそうだ。箪笥に足の小指をぶつけると痛い。涙が滲んでしまう。そしてそのまま舞台へ出るのだ。これで泣くのが苦手な役者でもきちんと泣くことができるようになる。しかしこの方法にも弊害はある。役者は跛をひきながら舞台へ登場することになるのだ。これではあの役者は足が不自由だなどというよくない噂が立ってしまう。あるいは先輩の大女優たとえば加賀まり子あたりから「あなた、これは親が死ぬ場面なのよ。ふんっ。足の小指が痛いときの涙と親との訣別の涙を一緒にしないでほしいわ。ふふふ。やってらんないわよ」などといういびりを受けかねない。ではどんな方法があるかというと、今度は箪笥ではなく親を舞台の袖に用意しておくのだ。出番の前にその親にこつんとハンマーをぶつけるのだ。親にハンマーをぶつけると死ぬ。涙が滲んでしまう。そのまま舞台へ出るのだ。これで泣くのが苦手な役者でもほんとうに真に迫って泣くことができるようになる。その上、加賀まり子先輩からのいびりも受けずにすむようになる。しかしこの方法にもお判りのように弊害はある。この方法は後にも先にもただの一回しか使えないのだ。一世一代の晴れの舞台という言い回しがあるが、これはまさにそれである。
 歌手というのもまた夢という名の嘘をつかねばならない職業である。特にロックというジャンルにおいては歌手の人世生活と歌詞とが重複していることを受容者は要求する。「俺の暮らしは貧しくて、いつでも腹を空かせてる」そんな歌を歌っている人間がぶよぶよと肥っていてはいけないのだ。しかし現実には歌詞の内容と歌手の生活は乖離していることがほとんどである。確かにかつてロックという音楽が華やかりしころには歌手と音楽は一心同体であった。歌詞の通りの無軌道な生活で身を滅ぼしたロッカーは枚挙に暇がない。だが現代ではどうだろう。私の知る限りほんとうに腹を空かしているロッカーはひとりだけである。たしか名を鈴木某といった。彼は本当に立派に腹を空かせている。
 だが生活と歌詞が一致していないその他大部分の歌手はその不整合に悩むことになる。ロックという反骨の音楽をやっていながら、俺はこんなことでいいのか。旨いものをたくさん喰って、日曜にはサザエさんを欠かさず見て、きちんとごみを分別して出す。これがロッカーの生活か。そういう疑問を抱きはじめるのだ。解決方法は二つある。ひとつはかつての先人たちのように無軌道な生活を実地にやってみるのだ。ロックは不良なのだ。彼は悪として生きようとする。生ごみとペットボトルと烏龍茶の罐をまとめてごみ袋に抛りこんでみたりする。ああ、俺はなんて悪い奴なんだ。あまつさえそのごみ袋を回収日ではない火曜に出してみたりなんかする。ああ、俺って悪だぜ。ところがそういう時に限って隣りのおばさんが覗いていて「ちょっとちょっと山田さん。今日はごみの日と違うがな。出したらあかんよ、あんた」などと言われてしまう。山田は部屋に持ち帰ったごみ袋の前で頭を抱えることになってしまうのだ。
 そこで二つめの解決方法である。生活を歌詞に適応できぬのであれば逆をすればよいのだ。「黒い革ジャンばっちり決めて今日も飛ばすぜハイウェイ。セックスドラッグロケンロール。まるで酒池肉林だぜ。(コーラス:肉林肉林)可愛いあの娘においらのロケットぶちこんでいかしたテキーラ一気のみ(コーラス:一気一気)へいへい。おいらはスーパースターだぜ。そんな生活できたらいいな(コーラス:いいなったらいいな)」つまり、願望を述べているのだ。あくまで願望であるからどんなことを言っても大丈夫なのである。
 ところで、真赤な嘘という言い回しがあるが、これはもともと英語にあったのを訳したものである。一九六九年にアポロが月面に着陸した。翌一九七〇年四月一日、コカコーラ社は「コークを飲んで宇宙へ行こう」というキャンペーンを打ち出した。近年にペプシがやった同種の企画は本物であったが、当時ではそれはまだまだ夢物語でありしかも四月馬鹿の日ということで、それが明らかに冗談であることは誰の目にも明白であった。そこで、明らかな嘘のことをコカコーラのイメージカラーを取って "red lie" というようになったのが始まりである。
 さて、今回は嘘を主題としたが、私もくれぐれも嘘だけはつかぬようにしたいものである。


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1999/04/01
文責:keith中村
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