第209回 絶壁王


 絶壁王は前かがみになるたびに、王冠を頭上より滑らせて落してしまう。たとえば、戦場で手柄をたてた者を叙勲するために玉座から立ちあがり、彼に勲章をつけてやろうとすると王冠を落してしまうのである。大広間に大臣神官侍従長侍女衛兵長道化師をはじめとする臣下百二十五名が整然と居並ぶ中、絶壁王の頭上から滑降した王冠はごとんと音を立てて床に転がる。二十四金に各種の宝石を埋めこまれたきらびやかな王冠はその美しい光沢とはうらはらにごろごろごろといつまでも愚鈍な音をたてつつ床で振動し続ける。王は困惑しながらちらと大臣や神官を窺う。彼らは王冠が落下したことなどまるで気がつかない様子で直立不動の姿勢を崩さない。よかった誰も気づいていない。絶壁王はそう思いながら臣下百二十五名を睥睨する。誰ひとり微動だにしない。だが絶壁王が侍従長に眼をやると、初老の侍従長の顔にはあからさまに悲しげな表情が浮かんでいる。嗚呼。それを見た絶壁王の顔は同じように悲しげな顔つきになってしまう。嗚呼。みんな気づいていないわけではなかったのだ。王の頭上より王冠が落下するというあるまじき光景を見ぬ振りをしているだけなのだ。つとめて何事もなかったようにふるまっているだけなのだ。それというのもこの絶壁頭がいけないのだ。絶壁王はいつものように自身の頭を嘆く。絶壁頭になったのは王の責任にあらず、それは先代の脱腸王のせいなのである。先代の脱腸王は生れたばかりの絶壁王を揺りかごから抱き上げ、あやしているうちにうっかりと手を滑らせて彼を取り落としてしまったのだ。絶壁王は頭をいやというほど床に叩きつけられた。まだ赤子であったため柔かかった絶壁王の頭蓋骨はその瞬間より絶壁となってしまった。火のついたように泣き出した絶壁王の声に何事かと集まってきた臣下の前でおろおろしながら脱腸王は、嗚呼と思った。嗚呼。何ということをしてしまったのだ。それというのもこの脱腸がいけないのだ。脱腸王はそのときそう考えた。脱腸王の脱腸は脱腸王の責任にあらず、それはさらに先代の鼻血王のせいなのであるが、それはまた別の話である。臣下の百二十五名が王冠の落下に気づかないふりをしているのは、自分への畏怖や尊敬あるいは愛情のためであるのかもしくは宮廷に仕える者としての矜恃からなのかそれとも叙勲式という伝統的かつ厳粛な儀式への敬意からか、絶壁王には判断がつかない。そして王冠は床の上でごろごろごろと魯鈍に揺れつづける。
 かつて絶壁王は、現在叙勲式がおこなわれているこの大広間の奥にある大階段を下っているさなか、あまりに前傾姿勢になったためにやはり王冠を落してしまったことがある。傾斜のある階段に転がり落ちた王冠はそのまま階下へ階下へと転落していった。絶壁王は反射的に王冠を追いかけた。王冠は生きているかのようにごろごろと階段を転がり落ちてゆく。絶壁王は追いかけた。王冠は階段のいちばん下までたどりついてもどうしたことか転がりつづけた。そのまま宮廷のホールに敷かれた絨毯を転がり、正門を転がり、城外へ続く跳ね橋をも通過し転がり続けていった。王は夢中で王冠を追いかけた。途中、ホールを通り抜ける前の大理石の廊下で通りかかった侍従長と眼があった。彼は王冠を追いかけて疾走する絶壁王に対してあからさまに悲しげな表情を浮べていた。絶壁王は悲しい侍従長の横を疾風のごとく走り抜けた。王冠はそのまま城外の大通りを転がり、市場を転がり、広場を転がり、城下のスラムをも通過し、国のいちばんはずれにある外敵の侵入を防ぐ城壁にぶちあたってようやく停止した。最高記録であった。
 絶壁王の入浴は五人の侍女にかしずかれておこなわれる。五人の役割は、浴槽の湯の温度を適切に保つ係、シャボンを泡立てる係、王の体を洗う係、王の髭を剃る係、洗髪の係である。絶壁王は冗談が好きである。絶壁王は懸命にシャボンを泡立てている侍女に後ろから忍び寄り、彼女の頭頂に自身の決して大きくはない陰茎を乗せてこう告げる。「ちょんまげ」
 おそらくは処女であろうと絶壁王が推測するその若い侍女は彼のいささか下品で野卑なその悪戯にしかし微塵も動じることもなく、そのたびに「そうですね」「あらあら。可愛いちょんまげですこと」「王様なのにちょんまでなんておかしいでちゅねー」「はい、はい。ちょんまげ、ちょんまげ。よかった、よかった」などと軽くいなす。はじめの頃はこの妙に落ちついた侍女を何とか驚かせてやろうと躍起になっていた絶壁王であったがしかしこの若い娘はどんなことがあっても慌てたり狼狽したり恥ずかしがったりすることはなく、いまやそれは冗談悪戯なのか形骸化した儀式なのかよくわからないことになっている。「ちょんまげ」「はいはい。小さいちょんまげちょんまげ」
 絶壁王は衛兵長が苦手である。もう少し何とかならぬものかと考える。この男の四角四面ぶりは困ったものだ、と絶壁王は衛兵長からの報告を聞き流しながら考える。でありますから隣国との国境紛争につきましては和解条約が締結される運びとなりましたのですでに憂慮すべきことはではないかと考えるのでありまして。馬鹿。もともと憂慮なんかしてないんだよ。この安寧平和な時世に好き好んで無茶をする国なんてあるわけがない。どこの国も軍隊という形式的な制度を形式的に維持するためだけに形式的に局地紛争をくり返しているだけなんだからな。心の中でそう呟いてから絶壁王は衛兵長の言葉を遮る。わかった。報告はそれくらいでよろしい。それより衛兵長。何か物真似をしてみたまえ。「は。ものまねでありますか」絶壁王の口から唐突に飛び出した単語の意味を測りかねて衛兵長は困惑した口調で言う。そうだ物真似だ。物真似とは物真似のことでありますか。物真似と言えば物真似に決まっておる。はあ絶壁王しかし何でまた物真似でありますか。馬鹿者これからは愛される軍隊でなければならぬ物真似のひとつやふたつできんでどうする。そう言われて衛兵長は眉をハの字型にして真面目に狼狽する。しかし絶壁王じぶんは物真似などしたことがなく。ええいくどい奴めやれといったらやれ。衛兵長はしばらくじっと考え込んでのち、絶壁王ではひとつ。すっくと立ちあがった衛兵長は叫ぶ。
「こんばんは。桜田ずん子どえーす」
 ……。絶壁王いかがでありますか。衛兵長、似てない。ちっとも似てないよ。衛兵長はがっくりと肩を落す。はあ、似てない、でありますか。よし衛兵長もう一回チャンスをやろう。衛兵長の顔が晴れる。はっ、あ、ありがたき幸せにあります。では。衛兵長は絶壁王の前を左右にうろうろしながら叫ぶ。
「うっほ。うっほっほ。うっほうほうほ」
 ……。絶壁王いかがでありますか。衛兵長、それは何だ。はい、ゴリラ君であります。……衛兵長、もう物真似はよい、朕が間違っておったのかもしれぬ。はあ何だかすみません。衛兵長、では何か冗談を言って見たまえ。そう言われて衛兵長はまた考え込む。しばしあって衛兵長が口を開く。では申し上げます。
「君のギターはフェルナンデス」「そうなんです」
 ……。絶壁王いかがでありますか。……。絶壁王。……。ぜ、絶壁王。……もうよい、下がれ。
 春まだきの宮廷は千年王国の柔らかな陽光に包まれている。カーニバルの日も近い。


新着順一覧 − 日付順一覧 − 前を読む − 次を読む − トップページ


1999/03/24
文責:keith中村
webmaster@sorekika.com