第204回 やはり犬かもしれぬ


 犬が出てくるのではないか。
 そういう強迫観念を持つのである。
 犬が怖いのだろうか。
 確かに子供の頃犬に追いかけられたことはある。幼稚園からの帰り道に雑種の犬がはっはっはっはっと舌を出しながら追いかけてきたのだ。子供だからそれなりの恐怖を味わった。犬としては何も襲おうという意図ではなく喜んでいたのかもしれない。そういえば尻尾を振っていたようにも思うのである。それに子供だったから大きく見えたけれど実際それほど巨大な犬でもなかった。だから精神的外傷になるほどではなかったはずだ。
 学生の頃に犬に噛まれたことが一度だけある。
 近所の道を歩いていると、大型犬がつないであった。何という種類か知らぬがときおりハリウッド映画に出てくる白黒の猟犬である。何だか耳がないような印象をうける弾丸めいた頭をした犬である。
「やあ。犬がいる」
 そう思って近づいた。
 かぷり。
 問答無用に噛み付いた。そりゃ犬であるから問答はできないけれど、いきなりのことであった。太腿に噛み付いたのである。非常に痛かったのである。
 しかしだからといって犬が怖くなったというわけでもない。
 犬が出てくるのではないか。
 それでもそういう強迫観念を持つのである。
 両脇だけ残して頭頂部が禿げている男性がいる。そういう男性のうち一部の者はどうしたことか、残った頭側部の髪を長めに伸ばしていたりする。これがある種の犬を彷彿とさせることがあるのだ。テレビを見ていてそういった種類の男性が出てくると、ついアテレコしてしまうのであった。
「わんわん。ぼく、実は犬ぽんです」
 失礼な話である。
 そういえば、白戸三平だったか山田風太郎だったかそれ以外だったかは定かではないが、封建時代の罪人への刑罰でこういうのがあった。
 一度罪を犯したものは額に「一」と入墨されるのである。二度目は一画増やして「ナ」となる。三度目で「大」、四度目でとうとう「犬」と彫られる。こういう罪人もやはり「わんわん。ぼく、実は犬ぽんです」となる。
 犬が出てくるのではないか。
 たとえば、住宅の玄関。
 犬を飼育している家庭の戸口には「犬」というシールが貼られていることがある。あれはたしか保健所で予防接種をしたという証明だかそういうものだったと思うのだがとにかく「犬」というシールが貼られていたりするのだ。どうやら定期的なものらしく、家庭によっては、
「犬犬犬」
 と並んで貼られていることがある。
 長期にわたって犬を飼いつづけている家庭では、
「犬犬犬犬犬犬」
「犬犬犬犬犬犬犬犬犬」
 これでもかとばかりに並んでいることもある。
 そういう家庭に限って庭先を覗きこんでも犬がいない。不思議なことである。こういう時思うのだ。
 犬が出てくるのではないか。
 がらがらがらと玄関の引戸を開けて、犬が出てくるのである。
「行ってくるよ」
「気をつけてね。あなた」
 出かけるほうも、見送るほうも何故か犬なのである。ネクタイをしめていたり、エプロンをつけていたりするかもしれない。
 そういう妄想にかられるのであった。
 あるいは、ファミリーレストラン。
 人件費削減のためか、ウェイトレスウェイターの数が少なく、いても厨房に引っ込んでいることが多いようなファミリーレストランでは、
「ご用の節はこのボタンを押してください」
 などと書かれた呼び鈴が設置されていることがある。
 ところが、呼び鈴と書いたが、これは押しても鳴らぬのである。鳴らぬのに、押せば確かにウェイトレスがやってくる。
 おそらくは電子的な装置であり、押せば厨房ではそうと知れる仕組みになっているのであろうが、ふとこれは犬笛ではないのか、などと考えたりするのである。
 犬笛というのは犬にしか聞こえぬ笛である。笛の音が人間の可聴範囲より高いため、人には聞こえずしかし人間より可聴範囲の上限が高い犬にははっきり聞える。犬を呼ぶときに使う笛なのだ。
 ファミリーレストランの呼び鈴がこの犬笛になっているのではないか、などと思ってみたりするのだ。厨房にテーブルの数だけ犬を飼っている。ボタンを押せば、それに対応した犬が吠えるのだ。
「わんわん」
「おや、五番テーブルのお客さんがお呼びだ」
 そういう仕組みになっているのではないか、などと想像してしまうのである。
 あるいは、やはり犬が出てくるのではないか。
 そういう強迫観念を持つのである。
 ボタンを押すと、厨房から犬が飛び出してくるのである。
「わんわん」
 しかも尻尾を振っている。喜んでいるのだ。どうしてだ。
「がつがつがつ」
 あろうことか、テーブルの上の料理を貪りはじめるのだ。どうしてだ。
 そういう強迫観念を持つのだ。
 ああ。犬が来る。犬が来るよう。困ったよう。
 いやいや、と頭を振って考え直す。犬が来るわけがないじゃないか。しっかりしろよ。
 ほら。大丈夫だよ。押してごらん。ウェイトレスがくるだけだからさ。な。君なら押せるよ。
 やだ。だって怖いもん。犬が来るんだよう。尻尾なんか振ってるんだよう。
 おい。いいか。な。落ち着け。大丈夫だからさ。さ。押しちゃえよ。
 食後のコーヒーを追加注文するだけなのに、頭の中ではそういう葛藤があるのだ。
 葛藤の末、幼児への退行現象をおこしていた自我は説き伏せられる。
 うん。そうだね。犬なんか来ないよね。
 そして、それでもおずおずと卓上の呼び鈴を押す。やはり緊張がみなぎってしまう。
 ややあって厨房から人がやってくる。
 な。どうってことないだろ。やってくるのは親切なウェイトレスのお姉さんだよ。
 脳裡で長老人格が幼児人格に告げている。
 うん。大丈夫だったね。
「お呼びになりましたか」とウェイトレス。
「ええと。コーヒーひとつ追加で」
 見あげると、ウェイトレスは犬みたいな顔だった。


新着順一覧 − 日付順一覧 − 前を読む − 次を読む − トップページ


1999/03/04
文責:keith中村
webmaster@sorekika.com