第199回 子供に詩を読ませるな


 文学の諸元は物語であり、かつて物語は世界を記録する手段であった。そして物語は叙事詩という表現形式で語られた。すなわちかつての詩は世界と対峙する手段であったのである。個と世界を区別する手段、個と世界の境界線を引く道具であったのだ。
 だがいつの頃からか詩は個と世界の境界を希釈にする道具に堕してしまった。
「激しい風が吹いている」という文が包含するのは事実のみである。そこにはただ世界があり、個の入り込む余地はない。そしてかつて詩はこのハードボイルドで語られたものだ。
 では「風が泣いている」という文はどうだろう。風に感情はない。風は泣かぬのだ。人が「風が泣いている」と抒情をもって表現するとき、実は泣いているのは当の本人である。本人の感情に過ぎぬものを世界に照射してしまう傲慢な抒情、そこにあるのは感情の責任転嫁、世界と自分との尊大な同一視、肥大化した自我である。
 私が詩を好まぬのは、そこにそういった鼻持ちならない甘えを感ずるからなのである。
 だが現代という時代は、世界と個との境界を希釈にしたくてしたくて堪らぬ時代のようで、はた迷惑な感情移入を強要してしまうのである。
「地球に優しい」「自分の気持ちを大切にしたい」「オレ的には」こういった愚劣な表現が「気のきいた言い回し」であるという誤解が蔓延し、あまねくすべての人にその価値観を押しつけてしまうのである。そしてまた子供には、情操教育だとか感受性を育むとかいう大義名分でもって詩的なるものへの感化を強制するのであった。
 私は時流に逆らっているのを承知の上であえてこの風潮に警鐘を鳴らそうかと考える。
 私がこの文章で言おうとしていることは、次の短い一文に集約される。すなわち、
「子供に詩的なものを与えるな」
 である。
 以下、子供に詩的なものを与えることの問題点を書いてゆきたい。
 さて、現代はマニュアルの時代とも言われるが、実際我々はさまざまなことをまず仮想的に体験する。たとえばセックスについて言えば、我々の大部分はそれを実地に経験する以前にそれに関する情報を得ていた。あるいは地球が太陽の周囲を公転している様子を実際に自分の目で確認した人間などいないのに、我々はそれを知っている。現代においてはまず情報が先行するのだ。初めに情報ありき、なのだ。この意味で我々はあらゆることに関して耳年増なのである。だが誤解して貰っては困るのだが、これは悪いことではない。これは学問の本質であり、ヒューリスティックなものだけでは対応しきれない程に世界が拡がって以来、人類があみ出した叡智の産物なのである。
 しかしだからこそ、情報には精度が要求される。我々がたいていの場合まず触れるはずの情報、それが間違っていては困るのである。
 いったい何が言いたいのだ、と苛立っている人もいよう。そろそろ本題に入りたい。

「ぼく、こまっちゃったよ」ときつねさんがいいました。
「どうしたんだい」うさぎさんがききます。
「あのね。ぼく、きつねなのにばけるのがにがてなんだ。どうしたらいいのかなあ」
「そうだねえ」うさぎさんはきつねさんといっしょにかんがえます。

 たとえばそういう童話があったとする。これを読んだ子供はどう考えるか。
「きつねさんとうさぎさんは仲良しなんだ」
 おそらくほとんどの子供にとって実物の狐さんや兎さんを見るのはこういう体験よりあとになる。こういう童話を読んで育った子供が狐さんや兎さんに実際に触れる機会があったとしよう。

 子供「うわあい。きつねさんだ。あっ。こっちにはうさぎさんもいる。そうだ、きつねさんとうさぎさんは仲良しなんだから一緒にしてあげよう。うさぎさん、はい、こっちへどうぞ」
 兎「じたばた」
 狐「むしゃむしゃ」
 兎「きゅう」

 哀れ兎さんは狐さんの餌食となってしまうのであった。無知は罪であるが、しかしこの子供の無知を責めるべきではない。糾弾されるべきは間違った情報を子供に与えた童話作家である。

 らいおんさんは ちからもち
 らいおんさんは やさしい
 らいおんさんは みんなのにんきもの

 そういう詩があったとしよう。子供は実物のライオンを目にする以前にこの情報を得てしまうのである。

「さあ、タケシちゃん。サファリよ」
「わあい。ばんじゃあい。ばんじゃあい」
「ほら。ライオンさんがいるわよ」
「あっ。らいおんさん。らいおんさん。みんなのにんきもの」
「あっ。タケシちゃん。だめよ。どこいくの」
「うわあい。らいおんさん。らいおんさん」
「きゃあ。誰か」
「うわあい。らいお」
「むしゃむしゃ」
「きゅう」

 哀れタケシちゃんはライオンさんの餌食となってしまうのであった。詩を与えていなければ未然に防げたはずの惨事であった。合掌。

「浦島さん浦島さん」
「誰だい」
「あなたに助けて貰った亀です」

 こういう物語を読んで育った子供が縁日で緑亀を買ってもらったとしよう。当然のことながら緑亀は人語を喋らない。子供は思うだろう。
「うちの亀は言語障碍だ」
 罪あるものは言葉だけではない。よく公園に動物を象ったオブジェが置いてある。象さんとかお馬さんとか栗鼠さんとかである。象さんやお馬さんは許そう。何故ならそれらは実物とそれほど変わらない縮尺にて作成されている場合がほとんどだからである。だか栗鼠さんはどうだ。象さんやお馬さんと縮尺を合わせるために非常に巨大な栗鼠さんになっているのではないか。そしてほぼ間違いなく子供は実物の栗鼠さんより前に公園の栗鼠さんを見るのである。
 こういう物を見た子供が本物の栗鼠さんを見たらどう思うか。
「あっ。この栗鼠さんは侏儒だ」
 恐ろしいことだが、子供は馬鹿だからそう思ってしまうのであった。
 如何であろう。子供に詩的なものへの感化を強要する弊害がご理解いただけたであろうか。
 再度言おう。
 子供に詩を読ませるな。
 更に言おう。
 あなたもこんな文章を読んでいる場合じゃない。勤務時間でしょ。


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1999/02/13
文責:keith中村
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