第188回 寒い寒い寒い夜


 その晩は近来まれに見る寒さだった。

 私がキーボードをかたかたかたかと叩いて書きたいのはたかだかかかる簡単な文章である。正月一日でもないのに日記などというものをつけてみようかと不意に思い付き、せっかく書くのだからやや気取った文学的な文章をば書かんとてそういう一文を思い付いた私は、さてではいざしたためんとコンピュータに向かいキーボードを叩いて打ちこんだのである。ここでいう「その晩」とは昨晩のことであり実際には昨晩はこの季節として際立って寒い夜ではなかったのではあるが、風邪をひいてしまい頭痛と悪寒がする私は寒くて仕方がなかったのだし、それに日記なる文章は紀貫之の昔より気取って恰好よく書くべきものであると相場が決まっておるのでこのような文を着想したのである。いや何も日記に限ったことにやあらず、文章は恰好よく書くというのがこの国の文化であり、かの丸谷先生も「ちよつと気取つて書き給へ」といふ箴言をおつしやられてゐる。かかる文化的背景に基づき私はコンピュータにかような文章をぶちこんでこましたのであるが、変換のキーを押せば画面に表示されるは、

園番は金ら忌まれ煮海松サム鎖だった。

 などという不可解なる一文であったのだ。私はしばし凝然と画面を見つめた。いったいこれはなんとしたことであろう。変換がものすごいことになっている。園番とは何だ。夕陽丘学園五代目番長山田甚五郎兵衛、略して園番とかそういうあれか。たわけが。それとも庭番の異称であるか。チャタレイたら何たらいう夫人とあんなことやこんなことをしてしまう職業のことか。そういえばキャンディという古い映画でリンゴ・スターが庭番の役をやっておった。キャンディという美少女を犯す低能の庭番の役であり、あ、えろさぶまりん、あ、えろさぶまりん、などと歌いながらキャンディを手籠めにしておったように記憶するがもしかしたらそんな歌は歌っておらなんだかもしらぬ。とにかくそれらの刷り込みによって私は庭番というのがたいへんいやらしい即ちたいへん素晴らしい職業に思え、大人になったら庭番になるのだなどと考えた頃もあったが、だがそんなことはどうでもよい。チャタレイだか洟垂れだか知らんが今はそんな腑抜けのぼけ野郎に用はない。それよりも海松というのは何だ。おそ松くんの兄弟にいたようないなかったような。調べてみるとこれで「みる」と発音することが判明した。辞書によるとかかる説明がほどこされておる。

 海産の緑藻。浅海の岩石に着生する。全体に濃緑色を呈し、直径三ミリメートルくらいの円柱形肉質の幹が多数に二叉分岐する。高さ約二○センチメートル。食用。

 なるほど海藻であったか。しかしかなりとんでもない海藻である。説明を読むだけで相当無気味な生物であることがわかる。ぶよ、とか、ぐちょ、とか、ぺちょ、とかそういう音をたてそうなげろげろ生物ではないか。想像したら頭痛と悪寒がしてきた。ああ。気持ち悪い気持ち悪い。食用だと。そんなえげつないものを食用にするのか。おえおえ。げろ。ああ、いやだいやだと再度辞書に目をやるとその続きに、

みるめ。みるな。みるぶさ。またみる。

 などと書かれている。海松の異称であるようだが、見るな、とか、また見る、とか、なかなか忙しいやつである。かかる馬鹿はかかわりあいにならぬよう抛っておくのがよろしかろう。
 よろしかろう、ほい、よろしかろう、ほい、と呟きながら再び画面に表示された難解な一文を見遣った。リンゴ・スターとか、おえおえのげろげろとかよく判らぬ文ではあるが、私なりに解釈してみようと思ったのだ。
 つまりあれだ。
 元ビートルズでぶいぶい言わしたリンゴ・スターは今や園番あるいは庭番に身をやつしておるのだ。しかしひょんなことからその正体がばれてしまう。そんなところへ訪れた遠山金四郎人呼んで遊び人の金さんG3。二人は意気投合し義兄弟の盃を交わすことになる。「よう金の字、これで俺たちゃ兄弟だね」「おうさ、リンゴ兄さん、そうともさ」「わっはっはっはっ」「わっはっはっはっ」。ところがその土地にもやはりやくざはいるのだ。やくざの組長金子光晴は街へやってきた遠山金四郎を疎ましがり「おい、お前ら。チャカ持ってこいや。あのぼけ、いてもたれ」などと子分らに命じ、奇襲を企てるのだ。危うし、遠山の金さんG3。危うし、リンゴ兄さん。「リンゴ兄さん、どうしようか」「ふふふ。金の字。大丈夫さ。俺には生き別れになったサムって弟がいるんだけっどもよ、奴が俺にこんなものを遺してくれたのさ」そういって床下から鎖鎌をとり出すリンゴ兄さんだった。で、リンゴ兄さんこれをどうすんだい。何、金の字。こんなこともあろうかと海松を煮こんでおいたのよう。うわ、リンゴ兄さん、こりゃ気色わりいや。おえおえのげろげろじゃねえか。そしてリンゴは煮た海松をサムの鎖鎌につけて振り回し応戦するのであった。
 どうしてそんなことをするのかは判らない。
 なにぶん、リンゴ・スターのすることであるから。
 そこまで考えて私は我に帰った。風邪をひいておるせいで、どうも妄想だか幻覚だかを生じてしまっていかん。それにひどく寒い。ぼう、としているとだんだん腹が立ってきた。このぼけが。ぼけコンピュータが。どうしてこれしきの文をきちんと変換できぬのか。腐れPCが。悪態をつきながらキーを叩いていると画面に「辞書ファイルにアクセスできません」などという言葉が表示された。夜鷹PCが。出べそPCが。ええい、こっちは寒うて寒うて機嫌が悪いのぢゃ。そうぢゃ、悪いのぢゃ。このぼけ、いてまうぞ。ええい、折檻ぢゃ、折檻ぢゃ。そういって足でコンピュータを蹴とばした。
 ぼむ。
 すぐには何が起こったのかわからなかった。めらめらばちばち、などという音がする。見るとコンピュータが発火しておるではないか。
「ふが」
 腰が抜けた。「へげろ。はがはが」そのまま後退りする。
 しばらくしてようやく正気をとり戻した。いかん、消火活動をせねばならぬ。せねばならぬのぢゃ。風呂場へ駈けこみ洗面器になみなみと水をたたえ、そのままコンピュータのところへ取って返しぶちまけた。
 そして。
 しうしう、ぢうぢう、などという音を立ててコンピュータは鎮火したのであった。
 どうやらコンピュータは壊れてしまったようだ。しまった、何という失態をしでかしてしまったか。ええい、口惜しや、エエエ、ヨヨヨヨヨ。などと泣いておっても仕方がない。現実逃避すべく私は街へ繰り出すことにした。そうだ。家にとじ籠っておってもしょうがない。日記だと。ふざけんな、洟垂れが。俺はアウトドアでアクティブに生きるのだ。ヴィヴィッドでハイカラなお洒落さんなのだ、と歩きはじめた。外はすっかり夜である。しかし平日だというのに人通りが多い。あそうか本日はクリスマスイブなる日であったか、なるほどなるほど。居並ぶ店店の軒先から華やかなクリスマスソングが響いておる。そうぢゃそうぢゃ、クリスマスイブではないか。こんな日に腐れコンピュータに向って日記など書こうとした俺が馬鹿であった。洟垂れぢゃった。そう思えば、ジングルベルなどという歌も口ずさみたくなってくるというものだ。

 あ ほい
 甚五郎兵衛 甚五郎兵衛
 甚五郎じゃない
 お猿も駱駝もクリスマス
 あ ほい

 何だかとても心地よい気分である。街を歩く人がすべて善人に見えてくる。ほれ、手をつないでそこな辺りを歩くあの若い恋人たちを見るがよい。「ねーねー、ひろしー。えええええ。何食べよう」「えええええ。うーん。そうだなー」「ねー。どーすんのー。えええええ」「じゃーおれー、お前を食べたいなー。えええええ」「えええええ。もうひろしー、やらしーんだからー。えええええ」えええええ、などというよく訳の判らぬ低能な笑い声を発しながら愚かな会話を繰り広げるかの馬鹿カップル略して馬カップルですらすがすがしく見えるではないか。そうなのです。クリスマスは人を清い心にさせるのです。「おがーちゃん、これほしー」「どれー」「これー。これ買ってくでー」「まー、こんなのほしーのー」「けんじ、こっちのほーがいーんじゃないかー」「いやー。これー。これほしー」「あなたーどーするー」「いーんじゃねーかーくりすますだしー」「これほしー」などと玩具店の店先にたむろし、人びとの通行をいささか妨げるこの馬鹿家族略して馬家族ですらほのぼのと感じられるではないか。ああ、神様。私は何と心が広いのでしょう。「これー。これにするー」「わかったわかった。買ってやろー」「えー。わーい。ばんじゃーい。ばんじゃーい」そういって走りまわる阿呆の餓鬼をも優しい目で見ることが。見ることが。こら。こらこら。こっちへ走ってくるんじゃない。貴様の手には半ば溶けかけたソフトクリームが握りしめられておるではないか。来るな。来るでない。わー。
 そう思っている間にも阿呆の餓鬼はわーいわーいなどと阿呆の言葉を発しながらどんどん私に接近し、ついには私の足に激突しくさったのである。見れば私の上着にべっとりとソフトクリームが付着しておる。
「ええい。そこな餓鬼。ここへ直れ」
 阿呆の餓鬼は阿呆であるからきょとんとしておる。
「おのれぢゃ。おのれのことを言うておるのぢゃ」
「けんじー、どーしたのー」
「こら。阿呆の餓鬼の阿呆の親ども。貴様ら全部いてこますぞ、われ」
「なによー、あんたー」
「おがーちゃーん」
 熱にうかされておる私の口からはとめどもなく呪詛の言葉が漏れ出づる。
 こら馬鹿の家族略して馬家族。遠くにあらば音に聞け近くば寄って目にも見よ。お前ら馬家族はやはり馬鹿族である。一時とは言えど優しいやさしーい気持ちになって貴様らを容認した俺がいけんかった。ええい、どうしてくれようぞ。今宵はこの妖刀村正もいっそう輝いておるぞ。何、村正よ、血が欲しいぢゃと。ようし、そうかそうか。待っておれよ。今たんまり吸わせてやるぞ。こら、馬家族男親。馬家族女親。それに馬家族の阿呆の餓鬼。貴様らまとめて刀の錆にしてくれるわ。よいか。厭といってももう聞かぬぞ。泣け。わめけ。ふははははは。このぼけが。この洟垂れが。この行燈野郎が。このリンゴ・スターが。
 ふと気がつけば、かの馬家族はとうにいなくなり、周囲には狂人を見る眼つきをした人びとが蝟集しておる。ぶるんぶるん手を回して罵倒しておった私はそして、不意に羞恥の感情に支配されたのである。いかん。このままではいかん。どうすればよいのだ。ううむ。ぽく。ぽく。ぽく。ぽく。ぽく。ぽく。ぽく。ぽく。ぽく。ぽく。ちん。よっしゃ。思い付いた。よっしゃ。ガッツポーズ。そうなのだ。わたしゃ、ただの酔っぱらいっす。酔っているっすー。へべれけー。ういー。へべれけっすー。ぶるんぶるん振っていた手をそのまま頭の上に持ってゆき、えらやっちゃえらやっちゃとその手をくねくね踊らせながらさりげなく私はその場を離れたのであった。
 酔っぱらいっすー、と言いながら。
 あくまでさりげなく。
 しかし最前はたいへんな目にあった。再び道を歩きはじめた私はそう考えた。どういうことだ。それもこれもあの夜鷹PCがいかんのだ。あのいかれ蛸野郎がいかんのだ。何がぼむ、だ。何がめらめらばちばち、だ。機械の分際で人を馬鹿にしくさって。愚弄しくさって。いや、それよりもこの風邪がすべての元凶か。なんだかとてもぞくぞくする。そういえば先程勇猛果敢な消火活動を展開した折、慌てておってしこたま水をかぶってしまった。あれがいかんかった。おかげで風邪がひどくなったに違いない。すでに現実と妄想の境目がつかんようになっておる。
 ぶるぶる。
 顫えると無性に小便がしたくなってきた。なんだか頭ががんがんする。かなり熱があるのかもしれぬ。冷えるとどうもトイレが近くなっていかん。あれ。トイレが近い。何であるか、それは。よく考えるとおかしな言い回しである。トイレが近いという言い回しは「小用を足す間隔が短い」「すぐ小便を垂れたくなる」そういう意味にて用いる言葉である。この文脈での「近い」は思えばちと珍しい用法ではないか。「トイレが近い」の「近い」はトイレに特化した意味ではないか。しかし、トイレというのは外来語であるから歴史的に見ればかなり最近のものである。いつ頃からある言い回しであろうか。それともかつては「厠が近い」だの「雪隠が近い」だの言うておったか。「トイレが近い」改めて口にすれば如何にも面妖な言葉である。他に応用してみよう。
「侍が近い」
「うどんが近い」
 やはりよく判らないことになってしまう。侍が近い、とはどういうことだろう。すぐ侍に変化してしまうとか、頻繁にちょん髷を結いたくなって仕方がないとかそういうあれか。うどんが近い、ってのはうどんを食べる間隔が短いとか、いつでもどこでもうどんを鼻に突っこみたい衝動にかられて居ても立ってもいられないとかそういうことか。
「シャンプーハットが近い」「コンコルドが近い」「わさびが近い」「近衛文麿が近い」「数学的帰納法が近い」「へっぴり腰が近い」などといくつか応用してみたがどれもこれもしっくり来ない。
 はっ。そんなことをしている場合ではなかった。小便がしたくてしたくて堪らんのだ。こんな埒もないことを考え続けておるとそのうち小便が膀胱いっぱいにたまってしまうではないか。膀胱が破裂するではないか。ぼむ、とかそういうあれだ。いかん。大変なことになってしまう。何とかせねば。何とかしなければ。
 しかし、考え事をして歩いていたため、周囲を見渡すとすでに商店の並ぶ地域からはかなり離れてしまっている。どこかの店の手洗いに駆け込むわけにはいかなくなってしまった。住宅地のようなところへ出てしまったのだ。やばい。破裂だ。ぼむ、だ。いかん。このままでは俺の膀胱はものすごいことになってしまう。今、膀胱が危険です。膀胱を救え。へるぷ・みー、みたいな。れすきゅー、って感じ。大変です大変です、えすおーえすです、と呟きながら更に歩いたがそんなことをしていてもどうしようもない。見れば住宅の塀がある。こんなところに塀があるんだねえ。へえ。などと腑抜けたことを言っても詮ないことであるし、それよりも今はこのぱんぱんに腫れた膀胱を救助することが先決である。ええい、ままよ。私はその塀に向かいズボンを下げたのである。
 ああ。いい。いいの。とってもいいの。神様。私は今いいことをしました。膀胱を助けたのです。セイブ・ザ・膀胱なのです。これは善行なのです。
 その快感に恍惚となっておった私の背後から声がした。
「ちょっと、君い」
 塀に向かいて膀胱を助け続けながら顔だけ振向いてみた。
 いかん。巡査である。
「君ねえ。困るんだよなあ。そういうことされちゃあ」
「あの。あわ。あわわ」
「ちょっと来てもらおうか」
「いや」あのね。いや、ちょっと。ちょっと待って。悪いのは俺じゃないの。俺じゃないのね。腐れPCがいけないの。そうなの。それとね。馬家族の阿呆の餓鬼がね、ソフトクリームをね。それがいけないの。風邪ひいてるし。それにね。金子光晴がね、奇襲をしかけたからね。だから。奇襲はいけません。そう。そうそう。いきなりなんて卑怯じゃない。だよねー。そりゃこんなところで小便してたのも悪いだろうけど、でもね。そうしないとね。膀胱がね。ぼむ、みたいな。だから、れすきゅー、みたいな。おまわりさん。お巡りさんってば。判るでしょ。膀胱がとんでもないことになったら、大変なことでしょ。だからね。いけないのは僕じゃありませーん。僕は良い子なのでしゅ。そうでちゅ。いい子ちゃんでしゅ。いけないのはねー。んーと、いけないのは、そう。そうそう。あいつでしゅ。リンゴ・スターなんでしゅ。リンゴが悪いんでしゅ。ああ、いけない子ちゃんでしゅねー、リンゴは。
 意識はすでに混濁し、巡査の姿は目に入らない。眼前にあるはおのが頭が作り出した妄想のみ。リンゴ・スターと金子光晴が並んで微笑んでおる。まだ小便が流出し続けているような気がする。ひどい夜である。僕はどうちたらいいんでちゅか。
 とにかく寒くてたまらなかった。


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1998/12/25
文責:keith中村
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