第177回 書かなくちゃ


 猫の脳には未来のことを考える能力がないという話をきいたことがある。猫は、お腹がすいたんだにゃん、とか、眠いんだにゃん、とか、あの娘が好きなんだにゃん、とか、そういったことは考えられても、将来を展望することができない刹那的な生き物だというのだ。ほんとうかどうかはわからない。だが、そういえば犬は地面を掘って骨やなんかの好物を隠したりするが、猫はそういったことを一切しない。犬は貯蓄するが、猫はしないのだ。
 ところで、貯蓄の概念が欠落しているのは何も猫だけではない。
 私もそうだ。
 自慢ではないが、この歳にして貯金はない。一切ない。ちっともない。これっぽっちもない。ないったらない。ありませんったら。
 自分のことながら、どうしてそんな風なのかさっぱり判らない。思うに先祖は狩猟民族だったのではあるまいか。乃至は江戸っ子であったのではあるまいか。乃至は猫だったのではあるまいか。そして、昔の弁当箱はアルマイト。
 貯蓄の概念がないのだから保険というものにも入っていない。もちろん、一介の勤め人であるから健康保険だとか厚生年金だとかいう社会保険料は税金とともに給料から自動的に引かれてしまう。だが、それ以外たとえば生命保険に代表される個人的に加入する保険には一切入っていない。
 さて、保険のおばさんなり保険のお姉さんなりという職種がある。家庭や会社をまわって保険の契約をとりつける人である。私が勤務する会社にもそういった人が時おり訪れる。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
「今お時間ちょっとよろしいですか」
「あー、と。やや忙しいのですが」
「やや忙しいんですか」
「ええ。やや忙しいんです」
 保険の人は昼休みに訪れることが多いのだが、この時間はネットワーク管理者の私にとって休憩時間ではない。というのも、私の勤務する会社は各地に事業所を持っており、それぞれにネットワーク端末が設置してある。端末に異常があれば私の部署に連絡が入り、対応をとることになるのだが、これら事業所はひる十二時が営業開始時間であり、事業所にやってきた職員が端末異常を発見して連絡してくるのが昼あたりに集中することになる。だから、一般にいう昼休みは私がいちばん天手古舞いしている時間になるのだ。
 そのいちばん忙しい時間に保険の人にやってこられるといささか困ってしまうのだ。
「お暇ならちょっとアンケートにご協力いただけたらと思うんですが」
 人の話を聞いとらんのか。
「いや。だから、忙しいんですってば」
「お暇じゃないんですか」
「じゃないんです」
「じゃないんですかあ」
「じゃないんですっ」
 私のところにくる保険の人は、真面目だがややぼうっとしている女性であり、何度も同じことを確認する人なので忙しいときにはやや苛々してしまうのだった。
「ではまた取りにきますので、お時間があるときに書いておいてください」
「はい。そうします」
「そうしてください」
「はいはい。じゃ、この飴ちゃんをさし上げます」
 そういって彼女は飴ちゃんを一粒手渡すのであった。
「はいはい。ありがとう」
 何が悲しうてこの歳で飴ちゃんを嬉しそうに貰わねばならぬのだ。
 やがて何日かしてまた保険の人がやってくる。
「こんにちは」
「はい。こんちは」
「お時間よろしいですか」
「あー、と。やっぱりやや忙しいんですが」
「やや忙しいんですか」
「ええ。やや忙しいんです」
「忙しいんですね。……ところで先日のアンケートはお書きいただけましたか」
 忙しいというておるのに判らん人である。
「忙しかったんでまだ、なんです」
 もちろん初めから書くつもりなど毛頭ない。狩猟民族と江戸っ子と猫を祖先に持つ私である。保険などというものは私の生き方に反する。たとえ、アンケートに回答するだけであっても私のイデオロギーに反するのである。ただし、正直にそれを言っても波風が立つだけなので、一応そう答えるわけである。
「忙しかったんでまだ、なんですね」
 だから。繰り返すなってば。それ、かなり厭味だぞ。
「ではまた書いておいてください」
「はいはい」
「そうしてくださいね」
 くどい奴だ。「はいはい」
「では、飴ちゃんをさし上げます」
 そういうとまた彼女は飴ちゃんを手渡して去って行くのであった。保険の人は不思議である。
 数日あってまた保険の人はやってくる。
「こんにちは」
「ちは」
「お時間よろしいですか」
「あー、と。かなり忙しいんですが」
「かなり忙しいんですか」
「ええ。か、な、り」
「忙しいんですね。……ところで、アンケー」
「まだ、です」
「まだ、なんですか」
「はい。まだ、です」
「いつ頃お書きいただけますか」
「忙しいんで、わかりません。もしかしたら一生書けないかもしれません」
「一生書けないかもしれないんですか」
「しれないんです」
「……そうですか」
 ちょっと冷たい言い方だったかもしれぬが、仕方あるまい。
 保険の人は、今度は飴ちゃんも渡さずに帰りはじめた。
「あーあ。もれなく森高なのにな」そんなことをぽつりと言う。
 私はぴくりと反応した。帰りかけている彼女を呼びとめる。
「あの。もしもし。そこの保険の方。保険のお姉さん」
「はいはい。何でしょう」
「今、何とおっしゃいましたか」
「今、ですか」
「ええ。もれなく、だか、森高、だか」
「アンケートお書きいただいた方には、もれなく森高のファイルケースをプレゼントしてるんです」
「森高、というと」
「森高、です」
「ええいっ。もどかしい。だからあ。森高、というと」
「森高千里です」
「ぬわにっ。もりたかちさとっ。ちさとさんっ。どうしてそれを早く言わないんですかっ」
「だって、聞かれませんでしたから。でも、もういいです」
「いやいやいやいや。よくない。断じてよくない」
「じゃ、失礼します」
「あ、こら。待て。いや、待ってください。書きます。書きます書きます。書くったら書く。百枚でも二百枚でも書きます」
 保険の人の顔がぱっと晴れる。
「書いていただけるんですか」
「書きます書きます。ほら。ちょっと待っててください。すらすら。すらすらすらすら。すらすら。はいっ。書けました」
「ありがとうございます。じゃあ、これがあ、森高です」
 保険の人は鞄からファイルケースをとり出した。もれなく森高である。
「おおっ。確かに森高です」
「確かに森高でしょう」
「はいっ。確かに森高です」
「では、またよろしくお願いしますね」
「いや。こちらこそひとつ、どうかひとつ、よろしくっ」
 そして保険の人は去っていった。
 私はにこにこ笑い顔で森高ファイルを見つめるのであった。
 恐るべし。森高の前にイデオロギーは無力なのである。あまりにも。
 そして、私と保険の人との攻防はまだ続くのであった。 


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1998/11/09
文責:keith中村
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