第171回 語尾砂漠


 さて、今や明治の言文一致期から数えて一世紀以上が経過している。言文一致の功罪はすでに語り尽くされているのではあるが、今あえてその罪を問うとすればやはりその語尾の貧困さをおいて他にはないだろう。文語においては「けり」「なり」「き」「ござる」「おじゃる」を筆頭にさまざまな助動詞があり、更には係結びの法則により語尾が終止形に限定されなかったため、文の終わり方は実に変化に富んでいた。しかし、現在我々が使っているこの言葉はどうだ。大雑把に言って「ですます調」と「だである調」のたった二種類しかないではないか。
 外国語と比較すると日本語の語尾の貧困さは更にくっきりと浮き彫りになる。たとえば英語のような語順を持つ言語であれば、文の最後にはありとあらゆる単語が来ることができる。本来文頭にくる主格の代名詞ですら、"I'm taller than he." のような文では文末にくることができるのだ。もっとも最近の話し言葉では文法的にはおかしい "I'm taller than him." を使うのが普通になっているようだが。
 たしかに二葉亭四迷は、山田美妙は、すぐれた才能であった。しかし、ただでさえ語尾の可能性の少ない日本語の語尾を更に限定してしまったという点で糾弾は免れないだろう。
 だが、明治百年をすでに超えた今にして、私はようやく一条の光明が見いだすことができた。それは昭和の終わりくらいからであったろうか、我々は新しい語尾の可能性を発見したのだった。
「いただきまんもす」
 どうだ。素晴らしいではないか。素敵ではないか。何しろまんもすだ。
 普通に言えば「いただきます」になる、この平板で味気ない紋切り型の言葉に、何と豊潤な実りをもたらすのであろうか、まんもすは。
 更に感動的なことには、この語尾は無限に近い応用が効くのだ。
「いってきまんもす」
「ただいまより開会式をとりおこないまんもす」
「では明日そちらへうかがいまんもす」
「ぐげげげ。わたしはヤゴゲルゲでまんもす」
「ポチ。ポチや。こっちへおいでまんもす」
 何といっても語調に勢いがある。強さがある。まんもすよ、ありがとう。
 さて、まんもすに感謝しながら私は新たなバリエーションを考案した。
「いただきますとどん」
 ますとどん、である。確かにますとどんはまんもすよりも小さい。まんもすよりも地味である。だがしかし、だからこそ奥ゆかしいさを感じずにはいられないではないか。もしあなたが付き合っている女子の人の家庭に食事に招かれたとしようではないか。
 女子の人の母親はきっとあなたにこう言うのだ。
「まあ、まあ。ようこそ。何にもありませんけど、たあんと召し上がってくださいな」
 さあ。今だ。
「いただきますとどん」
 お判りだろうか。ここはどう考えても、まんもすでは駄目な場面である。まんもすには遠慮が感じられない。強すぎるのだ。それはまずい。だが、ますとどんは違うぞ。何しろますとどんは奥ゆかしいのだ。いいぞ、ますとどん。
 女子の人の母親は、あなたのことを「まあ。若いのになんて誠実で分をわきまえた人かしら。娘の婿にぴったりね」と思ってくれるに違いないのだ。
 更には、こういう言い回しも成り立つ。
「いただきなうまんぞう」
 なうまんぞう、なのであった。どうだ。野尻湖だ。発掘だ。堅実でひたむきなありさまがひしひしと伝わってくる素晴らしい語尾ではないか。
 ところで、現在の語尾の収穫は何もまんもすだけではない。
「許してちょんまげ」
 出た。ちょんまげ。
 通常の語法ではこれは「許してちょうだい」となるべきものである。だが、「許してちょうだい」はちょっとまずい。何となればそれはふざけすぎているからだ。本来は「許してください」が正しいのだ。だが、「ください」を「ちょうだい」に変えることで、何とも人を小馬鹿にした表現に成り果ててしまうのである。
 だが、ちょんまげなら話は別だ。何しろちょんまげなのだ。いったい、ちょんまげを結っているのはどんな職業の人がいるかというと、いうまでもない、武士と力士と千葉真一だ。どれをとってもこれ以上ないほど真摯な態度の人ばかりではないか。つまり、「許してちょんまげ」からは「ああ。私は何ということをしでかしてしまったのだ。武士として面目ない。あるいは力士として面目ない。もしくは千葉として面目ない。どうか、どうか、私を許してください」という真摯な態度が痛いほど伝わるではないか。
 そう。ちょんまげは真摯な姿勢の発露なのだ。真摯の象徴なのだ。
 類似の言い回しにはこういうものもある。
「拙者は侍だもんつきはかま」
 もんつき、である。はかま、である。折り目正しいではないか。口数は少ないけど、強い芯を持った正義の人であることがとてもよく伝わってくる言い回しだ。まさに、死ぬことと見つけたりである。葉隠れである。
 また、怒った時にはこういう言い方もいいだろう。
「おれは今猛烈に怒ってひなわじゅう」
 ひなわじゅう、である。種子島、である。伝来、なのである。
 ひなわじゅうで撃ってしまいたいくらい怒っているのだぞ、ということが、ありありと判る言い回しである。
 さて、我々の時代に生まれた語尾はまだある。
「聞いてちゃぶだい」
 ちゃぶだい、である。あの、料理を載せてからひっくり返すための道具である。ちゃぶだい盆に帰らず、である。
 この言い回しはどうだろう。「私はあなたにとてもとても聞いてもらいたいことがある。どうだ、聞く覚悟はあるか。もし聞いてくれないのなら、私は卓袱台をひっくり返す用意があるが、いかがなものか」
 そういう決意が伝わってきやしないか。私にはその魂の叫びが聞こえる気がする。
 さあ、今や我々は百年以上失われていた語尾の潤沢を手に入れたのである。文末のルネサンスである。語尾のレコンキスタである。これを使わない手はない。是非とも活用しようではないか。職場で家庭で恋人の前で街で村で海で山で。語尾砂漠を再び緑の大地にするのだ。
 時はきたれり。起ちて往け。そして砂漠を潤そうではありませんかんやまと。


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1998/10/19
文責:keith中村
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